亡命は衝動的だと示唆するKGB文書

『ヌレエフ』P.107:
突発的な行動だったのに!ヌレエフは家族を守り、なんの準備も作為もなかったと証明するためKGB文書を承認した。KGBは西側へ移り住むつもりでパリにやってきたに違いないと確信していた。
Meyer-Stabley原本:
Un geste purement improvisé! Pour protéger sa famille et suggérer qu'il n'y a eu aucune préparation ni complicité, Noureev adopte la version du KGB. En fait, celui-ci aura l'intime conviction que le danseur est bel et bien arrivé à Paris avec l'idée de passer à l'Ouest.
Telperion訳:
まったくの突発的な振る舞いだ!家族を守り、何の準備も共謀もなかったことを示すために、ヌレエフはKGBの見解を採用した。実際には、ダンサーはまさしく西側に渡る意思を持ってパリに到着したというのが内密での確信だった。

ヌレエフ亡命に関するKGBの報告書の内容を説明した後に続く部分。

この文脈で「突発的な行動だったのに!」と書くには、「KGB文書はヌレエフの行動が突発的ではないと結論した」という前提が必要。しかし次の理由から、その前提が存在するか疑わしい。

  1. 「亡命は突発的でないという結論の文書なら、ヌレエフが「なんの準備も作為もなかったと証明するために承認」するはずがない。
  2. 「突発的な行動だったのに!」に相当する原文"Un geste purement improvisé !"は文字どおりには「純粋に衝動的に行われた行動!」。この語句そのものに「~だったのに」の意味はない。

最後の文で、ヌレエフの亡命は計画的だったというのが"intime conviction"(内密の確信)だったと述べているが、その文の先頭にある"En fait"は、「(直前に述べた事柄に反して)実は」という意味。つまり、この前に書かれているKGB文書の見解は、内密の確信とは異なり、「ヌレエフは衝動的に亡命した」。これなら、何の準備も共謀もなかったと主張したいヌレエフが受け入れるのに無理がない。実際、KGB文書を読んでみると、「すでに出国の経験がある」「政治的に危険な要素はない」とあり、ヌレエフが亡命を計画していたようには見えなかったと言いたいように見える。

なお、訳本の「KGB文書を承認した」に相当する原文は"adopte la version du KGB"(KGBの見解を採用した)。ヌレエフがKGBの見解を知っているとも思えないので、それを採用するというMeyer-Stableyの表現に私は少し違和感を覚える。しかし、「厳戒機密」(訳本P.106)とあるとおりの部外秘の文書を、読んだはずがないヌレエフが承認するという新倉真由美の表現は、それに輪をかけて不自然だと思う。

更新履歴

2014/2/11
"en fait"には確信を強調する「実際」の意味もあるので、「実は」という意味だけだとした文を削除
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