ベジャールとの争いとブルーンの死という二重のショック

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』P.262:
一九八六年三月二七日、トロントで死の床にあったエリック・ブルーンのもとにヌレエフがコンコルドで向かったときに受けたショックもひどく重たいものだった。
Telperion訳:
1986年3月27日にヌレエフがコンコルドに搭乗し、トロントで死の間際のエリック・ブルーンと再会することになるだけに、なおのこと打撃は大きかった。
原本『Noureev』:
Le coup est d'autant plus dur que le 27 mars 1986 Noureev prend le Concorde pour rejoindre à Toronto Erik Bruhn, en train de mourir.

1986年春(『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』」P.259より)、モーリス・ベジャールがエリック・ヴュ=アンとマニュエル・ルグリをエトワールに任命したのをヌレエフが否認し、ヌレエフがベジャールに激しく攻撃されることになった事件を説明した後の文。

ブルーンの臨終はベジャール事件の打撃に追い討ちをかけた

"d'autant plus A(形容詞) que B(節)"は「Bであるだけに、なおさらAである」というイディオム。理由Bを持ち出すことで、形容詞Aの説得力を強調している。ここでは、形容詞Aはdur(つらい)、裏付ける理由Bはヌレエフが余命いくばくもないブルーンに会いにいったこと。

ここで注意したいのは、原文の「会いに行っただけに、打撃はなおさらつらい」は新倉訳の「会いに行ったことの打撃はつらい」と少し違うということ。つまり、ブルーンに会わなくても打撃はすでにつらく、ブルーンとの最後の会見はつらさを増大させた。当時すでにあった打撃とは、すぐ前に説明されたベジャールとの争い。しかし新倉訳ではベジャール事件が落着した後にブルーンに会ったよう。大変な事件を2つも抱えた当時のヌレエフに原著者メイエ=スタブレ(Meyer-Stabley)が見せた思いやりがぼやけて見える。

ブルーンのもとへ出かけたのはエトワール任命事件のわずか3日後

ベジャールが「アレポ」初演後にヴュ=アンとルグリのエトワール任命を発表したのは、『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』にも『Noureev』にも1986年春としかないが、正確には1986年3月24日。パリオペラ座の公演記録サイトMémOpéraで、「アレポ」説明ページに初演日の記載がある。ヌレエフがブルーンを見舞いに行ったのは3月27日、そしてブルーンの死去は4月1日。ベジャール騒動はまだまだ真っ盛りだったはず。

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