ヌレエフ亡命の根拠となった条約の呼び名

記事「居住しない国でこそ亡命を申請できる」で取り上げた部分で、ヌレエフが亡命するための根拠にした取り決めが触れられます。原本『Noureev』では"La convention de Genève"、訳本『ヌレエフ 20世紀バレエの真髄 光と影』では「ジュネーヴ協定」。当時はこの言葉が妥当かどうかに確信が持てず、奥歯に物が挟まったような文だったと思います。当時の記事に書いたことを引用します。

仏和辞書だけを頼りに"La convention de Genève"を訳すなら、「ジュネーブ協定」は最も一般的な訳語。私は国際協定のたぐいにはてんで疎いので、この訳語がありえないとは判定できない。

しかし最近調べ直した結果、「そもそも原本がミスリーディング」という気が強くなりました。そこでジュネーヴ協定に関するあれこれを前の記事から独立させ、書き直すことにしました。

亡命を支援する協定は日本では条約と呼ばれる

ヌレエフが亡命する根拠としてふさわしいのは、1951年に採択された取り決めでしょう。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、この取り決めの名は日本語、フランス語、英語でそれぞれ次のとおり。

日本語
難民の地位に関する1951年の条約
フランス語
La Convention de 1951 relative au statut des réfugiés
英語
The 1951 Refugee Convention

conventionは英和辞書でも仏和辞書でも「協定、協約」が主要な和訳。なぜ日本語で「条約」と呼ぶのかは分かりませんが、この言葉で定着している以上、「協定」よりは「条約」と訳すほうが、日本語の呼び名に近いのでしょう。

ジュネーブ条約といえば戦争傷病者や捕虜の保護

しかし新倉訳の「ジュネーヴ協定」を「ジュネーヴ条約」に置き換えても、読者の日本人は多分1951年の難民条約を連想できません。日本語でジュネーブ条約といえば、戦争の傷病者や捕虜の保護に関する1949年のジュネーヴ諸条約を連想するからです。再び3カ国語で並べます。

日本語 (外務省サイトにて)
1949年のジュネーヴ諸条約
フランス語 (国際赤十字社サイトにて)
Conventions de Genève
英語 (国際赤十字社サイトにて)
The Geneva Conventions of 1949

ジュネーブ条約は4つの条約の総称なので、英語やフランス語ではconventionが複数形だし、日本語でも外務省サイトは厳密に「諸条約」としています。しかし日本語は単数形と複数形の区別に無頓着なので、「ジュネーブ条約」と呼んでも別に違和感はありません。

フランス語でも難民条約をジュネーブ協定と呼ぶのは分かりにくい

フランス語ではconventionとconventionsの区別は重要なので、ジュネーブ条約を"La convention de Genève"と呼ぶのにはかなりの違和感があります。そもそもジュネーブ条約はこのときのヌレエフの役には立ちません。原著者メイエ=スタブレ(Meyer-Stabley)が"La convention de Genève"という言葉で指したいのは、やはり1951年の条約のはず。

フランス語でこの条約を"La convention de Genève"と呼ぶ例はあるのか?googleでこの語句を検索すると、"Conventions de Genève"が検索結果に大量に乱入してきます。それでも丹念に検索結果を探したら、ありました。フランス難民及び無国籍者保護局サイトの用語集に"Convention de Genève (1951)"という項があり、説明の冒頭は"La Convention de Genève relative au statut des réfugiés est ~"(難民の地位に関するジュネーブ協定とは~)です。

しかし、原文を読めば"La convention de Genève"の意味がすぐ分かる人が多いのか、私は疑わしく思っています。

  • 該当の協定と密接にかかわるUNHCRが、この協定を"Convention de Genève"と呼んでいません。
  • 仏語wikipediaの"Convention de Genève"のページによると、こう呼べる条約は400を超えるとか。しかもそこに載ったいくつかの例に、1951年のジュネーブ協定は含まれていません。

googleでいろいろ検索した感触では、フランス語で難民条約を指すためには、1951またはréfugiés(難民)がconventionと組み合わさることが多いようです。フランス語読者にとっても、単に"Convention de Genève"では、1949年のジュネーブ条約との違いが分かりにくいのでしょう。

ジュネーブ協定を誤訳と呼ぶには原文が不親切すぎ

日本語で「ジュネーブ協定」をgoogle検索すると、1954年に第一次インドシナ戦争の和平会議で定められた協定がヒットします。それを知っている人が『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』の「ジュネーヴ協定ではすべての外国人は居住する国における保護権を要求できる」を読んだら、何のことかと思うでしょう。しかし"La convention de Genève"から1951年の難民条約を導き出すのはかなり大変なので、とりあえず辞書どおりに「ジュネーブ協定」と訳す誘惑にかられても仕方ないかなと思います。

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