伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ラテン語の名文句を強引にフランス語扱い

『バッキンガム』P.133:
危険な噂話がある。
Meyer-Stabley原本:
Alea jacta est.
Telperion訳:
賽(さい)は投げられた。

子どもの頃から馬術に打ち込んでいたアン王女が競技大会でその才能を発揮するようになったことを述べた段落にある文。

一向に説明されない噂話

新倉真由美の文があからさまに変な点は、危険な噂話が何なのかがこの後も明かされないということ。アン王女が馬術の大会に出場したのは公の事実。Meyer-Stableyが同じ段落で書くことも、タブロイドより信頼性が高いメディアで普通に取り上げられそうなことばかり。

  • 競技のために進学をあきらめた
  • オリンピックでチームの一員として勝利した
  • 競技が縁で(最初の夫となる)マーク・フィリップスと知り合った

どこが危険な噂話なのか、まったく腑に落ちない。

原文はジュリアス・シーザーが発したとされるラテン語

2つの理由から、原文はフランス語でないことが強く疑われる。

  1. 正しい文法のフランス語として解析するのがとても無理
  2. イタリックで書かれている

イタリックはいろいろな意味で使われるので、それだけで非フランス語だとは決めつけられない。でもこのようにフランス語としては変な文がイタリックで書かれていれば、外国語の可能性を考えていい。

1980年代以前なら、"Alea jacta est."がどこの言葉で何という意味かを探すのは大変な作業だったろう。でも2010年代の今は、googleで検索するだけで、あっという間に答えが出る。

日本語訳「さいは投げられた」に聞き覚えがある人は多いだろう。趣味を優雅に楽しむのに飽き足らず、厳しい競技の世界に飛び込んだアンの覚悟を表すために、Meyer-Stableyは勝負に出たシーザーの言葉を引いた。

無理やりフランス語として読もうとしても破綻する

仏和辞書には、原文の単語3つを思わせる単語がいくつかある。

aléa
偶然、運、危険性
jacter
[口語]話す、しゃべる
est
être(英語のbeに相当する動詞)の直説法現在の三人称単数の活用形。英語のisに相当。

これを見ると、新倉真由美は「危険性」「話す」「~がある(estはこの意味を持つこともある)」を適当に書き換えながら組み合わせ、文を創作したらしいと想像できる。jactaを「噂話」としたらしいのは、飛躍の最たるもの。フランス語でjactaはjacterの直説法単純過去の三人称単数活用形。派生名詞jactaなる単語はラルース仏語辞典にすらない。

『バッキンガム宮殿の日常生活』が昔の翻訳本なら、外国語だと見当をつけてもその先に進めないこともあったろう。調べがつかずに破れかぶれになった訳者に同情したり、ほほえましく思ってもいい。でも『バッキンガム』はgoogleやwikipediaが栄える2011年出版。強引な創作を大目に見るべき事情はない。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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