伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ロイズは王室儀式中止保険を提供する

『バッキンガム』P.71:
ロイド社は大きな公式セレモニーの中止に備え、定期的にコマーシャルやホテル経営者やテレビ番組に保険をかけている。戴冠式の折に安全警備にかけられた額は少なかった。
Meyer-Stabley原本:
La compagnie Lloyd's assure ainsi régulièrement commerçants, hôteliers et chaînes de télévision contre l'annulation de grands cérémonies royales. Au moment de son couronnement, la cote de la prime sur la police d'assurance était bon marché ;
Telperion訳:
だからロイズ社は定期的に、商人やホテル経営者やテレビのチャンネルを相手に、大規模な王室儀式の中止に対する保険を引き受ける。戴冠式の時点では、保険証券の保険料の相場は非常に安かった。

女王の健康状態に細心の注意が払われる様子を述べた部分から。この引用の後には次の文が続く。

言い換えればロイド社の専門家たちは女王のヴァイタリティに賭けたのだ。

ロイズは保険業を営むというのが大前提

新倉真由美の文から思い浮かぶロイド社は、ホテルやテレビ局を傘下に収め、警備を手掛ける巨大多角企業といったところだろうか。でもあいにく、Lloyd'sは保険会社と同じサービスを提供する組織だということは、ちょっと調べれば分かる。ロイズはホテル経営者などに保険をかけたり、安全警備にかける費用を決めたりする立場にない。

保険に関する文で「ロイド社」を見てロイズを思い出す人なら、新倉真由美の文にかなりの違和感を覚えるはず。王室の機構や日常が詳しく書かれた本を読もうという『バッキンガム』読者には、イギリス全般についても知識がある人が比較的多いのではないかと私は思う。

ロイズは王室儀式中止の折には保険金を支払う

保険をかけるのではなく引き受ける

最初の文の述語の動詞assurerには、保険関連の意味が2つある。ラルース仏和辞典での説明とともに紹介する。

動作主が保険契約者
意味は「~に保険をかける」
Faire garantir un bien, une personne par un contrat d'assurance ;
保険契約によって財産や人を保証させる (Telperion訳)
動作主が保険業者
意味は「~を保険で保証する」
couvrir quelqu'un, quelque chose en tant qu'assureur :
保険業者としてある人や物を保護する (Telperion訳)

この場合、ロイズは保険業者なので、assurerは2番目の意味。

ホテル経営者などはロイズの顧客

最初の文の目的語、つまりロイズが保証する相手は"commerçants, hôteliers et chaînes de télévision"(商人、ホテル経営者、およびテレビのチャンネル)。三者のうちホテル経営者は、王室儀式が中止になると大損害を被りうる立場にあるということが最も分かりやすい。商人やテレビチャンネルも同様の立場にあると考えられる。

ロイズがこれらの業者を保証するとは、王室儀式が中止になったときに保険金を支払い、儀式を当てにした加入者の損害を軽減するということ。

警備費用をけちるのでなく保険料を安くする

2番目の文もやはり保険の話をしていることが、2つの保険用語から分かる。

la police d'assurance (保険証券)
仏和辞書に載っている用語。一見すると、「保障の警察」と訳せなくもない。新倉真由美が「安全警備」と言い出したのはそのせいだろう。しかし前の文の述語assurerの関連語assuranceが使われているのだから、やはり保険用語だと疑うべきだった。
prime (掛金、保険料)
仏和辞書にもある意味で、ラルース仏和辞典では最初に載っている。

前の文とのつながりから、ここで話題にしている保険とは、戴冠式が中止になったときに支払われる保険だと推測できる。その掛金が安価だったのは、保険金を支払う事態にはならないから安い保険料でも黒字になるとロイズが見込んだから。だから「ロイズの専門家たちは女王の生命力に賭けた」と言い換えることができる。

新倉真由美は「保険証券の掛金の相場」(la cote de la prime sur la police d'assurance)を「安全警備にかけられた額」とした。「安全警備の費用が少なかった」の後に「女王のバイタリティにかけた」が続くため、ロイズは「女王はバイタリティがあるから、テロがあっても大事には至らないだろう」と考えて警備の金を惜しんだように見える。何とも無責任な警備会社扱い。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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