なかったことにされたダイアナのマスコミ操作

『バッキンガム宮殿の日常生活』P.296:
ダイアナが生きていた頃の皇太子は、距離があり貴族的でほとんど愛情を感じられなかった。
Telperion訳:
ダイアナの存命中(そして妃はこの印象を与えるために十分うまくメディアを操作していた)、皇太子は身近におらず貴族的でほとんど情愛のない父だと見なされていた。
原本『Buckingham Palace au temps d'Elisabeth II』:
Du vivant de Diana (et la princesse manipulait assez bien les médias pour donner cette impression), le prince de Galles était perçu comme un père distant, aristocratique, et guère affectueux.

チャールズ皇太子と息子たちの関係について述べた節より。

事実を伝える言葉と判断を伝える言葉の違い

"le prince de Galles était perçu comme ~」は"皇太子は~であると見なされていた」で、「~」に当たるのが問題の多い父親像。新倉真由美は「であると見なされていた(était perçu comme)」をあたかも単なる「だった(était)」であるかのように訳した。

「~と見なされる」と「~である」は、次の印象を与える言葉。

~と見なされる
  • 筆者はその記述に賛同し、「筆者の他にも多くの人がそう思っている」と読者に思わせたい
  • 筆者はその記述に反対し、「他の人はそう思っているようだが、私はそうではないと思う」とほのめかしたい
~である
  • その記述は反論の余地がない事実
  • 筆者はその記述に絶対の確信を持っている

筆者が記述内容にたとえ賛成でも、反論の余地はないとばかりの強気な記述には問題があるから「~と見なされる」になるのだと思う。多くの賛同者という補強が要るのだ。

新倉真由美にとって、誰かがそう信じたということは確かな事実証明になるらしい。すぐ思いついただけでも、他に次の例がある。

  1. 同じ本で原文の「拒絶したという印象を与えた」を「拒絶した」にした
  2. 『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』で原文の「一夜を共にしたと自慢した」を「一夜を共にした」にした

でも私にとってこういう書き換えは、主張する人の主観を客観的な事実のようにゆがめるもの。自分が「~と見なされている」と書いた文を勝手に「~である」と書き換えられたら、「そんなことは言っていない」と腹が立つ。主観と客観の使い分けは、文章を書く上でとても大事なことだろうに。

チャールズが冷たい父という見解に距離を置く原著者

しかも、原著者メイエ=スタブレ(Meyer-Stabley)が「こういう父親だと見なされていた」と書いた理由は、「でもそれが事実とは限らない」とほのめかすためだということは、メイエ=スタブレが括弧に囲んで補足した「ダイアナはマスコミにそういう印象をうまく与えた」から察しが付く。「印象」とは、「確かなことではない」とメイエ=スタブレが思っているのがあからさまな言葉。見なしているのはマスコミとその信奉者だということも想像できる。

新倉本P.338ではチャールズと長男ウィリアムの仲の良さが書かれており、ダイアナ存命中の1995年夏に親子がギリシャで船旅をしたともある。まだ原本を十分に確認してはいないが、私にはメイエ=スタブレがダイアナ生前でもチャールズを悪い父とは決めていないように思える。

括弧に囲まれた文を一律に無視する弊害

新倉真由美が原本にないダイアナ礼賛を入れているのは確か。でも私は、新倉真由美がダイアナのイメージに不利な原文をわざと握りつぶしたとは思わない。それというのも、新倉真由美は『Buckingham Palace Au Temps d'Élisabeth II』にある括弧に囲まれた言葉を片っ端から無視しているから。訳しきれない量の原文をかかえ、括弧内の文を見ると「訳さなくても影響がない個所が現れた」とばかりに読み飛ばしているとしか思えない。訳さなくてもせめて一読しなければ、本の理解に支障が出ることもあるのに。

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