勘に頼らざるを得ない宮殿内部

『バッキンガム』P.43-44:
宮殿に勤めていたベテランの一人が実に便利なアドバイスをしてくれました。“宮殿は四角い建物だということを忘れてちゃいけないな。そうすりゃ元来た方向がわかるじゃないか、ねえ君。もし迷ったとしてもさ、遅かれ早かれ出発点に戻ることができるというものよ”と」
Meyer-Stabley原本:
Un des vétérans du personnel du palais, pour m'encourager, me donna un conseil pratique : "N'oublie jamais que le palais est bâti en carré, dit-il. Tu ne risques guère de te tromper. Il suffit de t'en remettre à ton flair, mon gars. Tôt ou tard, il te ramènera à ton point de départ." »
Telperion訳:
宮殿のベテラン職員の一人が私を励ますために、実用的な助言をしてくれました。『宮殿が正方形に建っているのを決して忘れるな。間違う危険はほとんどない。勘に頼るだけで十分だ、若いの。遅かれ早かれ、勘で出発点に戻る』」

元召使ラルフ・ホワイトが宮殿内部を迷わず移動することの難しさを述懐する中で、新米だったころのことを語る。

先輩職員が何を助言したか

2・3番目の文

私の訳「間違う危険はほとんどない。勘に頼るだけで十分だ、若いの」は、先輩職員が言った"Tu ne risques guère de te tromper. Il suffit de t'en remettre à ton flair, mon gars."をほとんど工夫なく日本語に移したもの。念のため、使われている単語とイディオムを列挙する。

語句意味
risquer de ~ (不定詞)~する危険がある
ne ~ guèreほとんど~ない
se tromper間違える
Il suffit de ~ (不定詞)~すれば十分である
s'en remettre à ~ (名詞)~に任せる
flair

対する新倉真由美の文は、「そうすりゃ元来た方向がわかるじゃないか、ねえ君。もし迷ったとしてもさ」らしい。しかし「元来た方向」や「もし~としても」などと言い換えられる語句は原文に見つからないし、原文にある唯一の名詞flairは訳されていない。

最後の文

先輩職員の言葉の最後の文"Tôt ou tard, il te ramènera à ton point de départ."の直訳は、「遅かれ早かれ、それはお前をお前の出発点に戻す」。文の主語il(それ)は男性名詞を表す代名詞なので、これに相当するのは前の文にある"ton flair"(お前の勘)のみ。

しかし新倉真由美は前の文から「勘」という言葉を抜いた。このため、新倉本の読者には先輩職員の言葉が「勘が出発点に戻してくれる」という意味だと分からない。論理的に元来た方向を割り出し、推理力で出発点に戻るかのよう。

勘頼みの発言を実用的と呼ぶ事情

先輩職員のアドバイスとは、「宮殿が正方形だということを頭に置きながら、とにかく勘に頼れ」。どこが実用的なのかと思う。しかも勘に頼った挙句に着くのは、行き先でなく出発点。迷宮とか高山とか、道に迷うことが死につながる場所なら、出発点に戻れることは喜ばしい。しかし勤務先で出発点に戻ってよしとするのは、ずいぶんと目標レベルが低い。

私が思うに、ここでホワイトが言いたいのは、こんな助言でも実用的と呼びたくなるほど宮殿内部は複雑怪奇だということだろう。新米だった頃のホワイトが中で道に迷って恐怖にかられ、「いや、先輩だってああ言っていた、きっと馴染みの場所に戻れる!」と本気で勇気を奮い起こすことだって、なかったとは言い切れない。Meyer-Stableyだってホワイトの発言を引用した後、慣れない宮殿の中で道に迷う人や、長年勤めても迷うのを恐れる人の例を挙げている。

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