中途半端に終わった拝謁シミュレーション

『バッキンガム』P.43:
すると左側に〈荷物用の扉〉が現れ、そこを通って宮廷の中に入ることができる。そこには女王があなたに会えるかどうか電話でチェックした秘書の執務室がある。
Meyer-Stabley原本:
Après un brusque virage à gauche par la « Luggage Door » et la traversée d'une cour intérieure, voici enfin le bureau du secrétaire où celui-ci vérifie par téléphone que la reine peut vous recevoir. Vous prenez l'ascenseur. Élisabeth vous attend...
Telperion訳:
"Luggage Door"(荷物の戸口)で不意に左に曲がり、中庭を通過した後、ついに秘書室に着く。そこでは秘書が電話で、女王があなたを迎えることができると確かめる。あなたはエレベーターに乗る。エリザベスがお待ちだ…

謁見に招かれて宮殿を訪れた人がたどるルートの説明から。来訪者は現在、« Privy Purse Entry » (新倉真由美訳は〈お手許金入口〉)から宮殿に入り、1階の廊下を歩いている。« Privy Purse Entry »とは、以前取り上げた"Privy Purse Door"のことだろう。

宮廷でなく中庭

「〈荷物用の扉〉を通って宮廷に入る」という新倉真由美の文には、奇妙な点がいくつかある。

  1. 新倉真由美が「宮廷の中に入る」と訳している動作は、原文では"la traversée d'une cour intérieure"。traverséeの意味は「横断、通過、渡ること」。ある場所に入ってから出るまでの移動のことであり、単に入るだけの動作を指すにはそぐわない。
  2. 宮廷への入口に〈荷物用の扉〉という名は不似合い。招待された客が通る扉とあってはなおさら。
  3. 宮廷といえば、君主を中心に高貴な身分の人びとが居並ぶ場所というイメージがある。その宮廷の中に秘書室があるのは場違いではなかろうか。

こうなった原因は、新倉真由美が"une cour intérieure"(内部のcour)を「宮廷」と訳したこと。courの意味には「宮廷」の他に「中庭」もある。この場合はcourが中庭だと解釈すると、上に挙げた違和感を解消できる。

  1. « Luggage Door »から中庭に入り、また別の扉から宮殿に戻ったのだろう。traverséeと呼んでよい。
  2. « Luggage Door »が廊下と中庭の間で出入りする扉なら、普段から荷物の出し入れに使ってもおかしくない。

もっとも、客が〈荷物用の扉〉を通って一旦中庭に出なければならない理由は分からないまま。『バッキンガム』原本出版時点に廊下の一部が補修中で使えなかったといった事情があるのだろうか。私自身は、それでもcourが「宮廷」より「中庭」のほうが、原文を尊重できるし、違和感が少ないと思う。

« Privy Purse Entry »に関連して上に挙げた記事にも、「中庭」のほうが妥当なcourが「宮廷」になった例がある。これも新倉真由美の癖のひとつ。

おまけ - 見取り図との照合

新倉本P.37の宮殿1階見取り図で、宮殿は中央に中庭が空いた四角形のような形で描かれている。残念ながら、〈お手許金入口〉も〈荷物用の扉〉も秘書室も載っていない。しかし私の推測では、それらの場所に関連する廊下とは、四角形の下の部分で左右方向に伸びている廊下だろう。

  1. この廊下は「手元金管理人執務室」に面している。
  2. 廊下の左端近くに「待合室」がある。引用した部分の前に、客である「あなた」が控えの間で待機するという記述があり、その「控えの間」と同じ部屋だと思われる。
  3. 廊下の右側の終点に「女王のエレベーター」がある。ここから2階に上がると、謁見の間がすぐそばにある。
  4. 廊下を左側から右側に進むと、進行方向左側の途中は中庭に面している。

恐らく廊下の左端に〈お手許金入口〉がある。来訪者はそこから入り、途中で左側の中庭を通る。恐らく廊下の右端に秘書室があり、そこまで来た来訪者は最終チェックの後、「女王のエレベーター」で2階に上がる。

観光シミュレーションは拝謁シミュレーションを終えてから

次に取り上げるのは、翻訳の間違いではなく省略。そのせいで周辺の文の大意が反対になったというような重大なものではないが、それでも私は省略するべきではないと思う。

バッキンガム宮殿案内である第1章では、Meyer-Stableyは宮殿への出入口について触れてから、いよいよ宮殿内部の説明を始める。その案内の仕方は2種類ある。

謁見に招かれた訪問者に向けた案内
この部分の冒頭は「あなたが宮殿に王室拝謁者として招待された場合、」(新倉訳)。その後、拝謁者がどういう職員に迎えられてどこを歩くかを説明する。引用した部分は、この拝謁者シミュレーションの最後の部分。
宮殿を見に来た観光客に向けた案内
引用した部分の後、段落が新たに切り替わる。その冒頭は「宮殿も訪問したいのですって? 差し支えありません。ではガイドに従って下さい。」(新倉訳)。その後、Meyer-Stableyはやはり読者に「あなたはどこそこに行く」と呼びかけつつ、話題にする価値があると見なした部屋をまんべんなく回って説明する。その様子は観光客を案内するガイドのよう。この章の大半を占める部分。

原本で拝謁者シミュレーションの最後に来る場面は、女王が待つ謁見の間に向かいにエレベーターに乗るところ。拝謁自体は宮殿案内の趣旨から外れるので、エレベーターに乗る時点でシミュレーションが終了するのは理にかなっている。新倉本P.38の宮殿2階見取り図を読む限り、2階ではほとんど歩かずに謁見の間に着くらしいし。

しかし、新倉本では「あなたはエレベーターに乗る。エリザベスがお待ちだ」が省略されたため、秘書室で拝謁者シミュレーションが終わる。ここを読んだとき私が受けた何とも消化不良な感じは、新倉本を実際に手に取って読まないと、なかなか実感できないかも知れない。1ページに満たない短さとはいえ、「あなたはどこを歩く、あなたはこういう職員に迎えられる」といった繰り返しを読むうちに、少しは来訪者気分が高まってくる。なのに秘書室に着いた途端に「宮殿も訪問したいのですって?」と言われると、「いいえ、拝謁が先です!」と反駁したくなる。ここは「こうして拝謁者は女王のもとに行くのだと分かった」と納得させてもらいたい。

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