このブログでしたいこと 第2版

この記事は、このブログを開設したとき、初めて読む方への案内として書いた「このブログでしたいこと」の改訂版です。元記事を書いたときは『ヌレエフとの密なる時』が対象外だったので、それについて触れるのを機に、新しい記事として書くことにしました。

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』の問題

このブログを開設した動機は、現在新刊を入手できる唯一のルドルフ・ヌレエフ本である『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(新倉真由美訳、文園社)が原本『Noureev』(Bertrand Meyer-Stabley著、Éditions Payot & Rivages)からどれほど逸脱した内容なのかをリストアップすることです。

この邦訳本が原本ととても違う原因は、ほぼ次の2つに集約されます。

『ヌレエフ』の誤訳や改変のうち、特に私の気に障るのは次の3点です。

1. ヌレエフの性格が原本で書かれているよりはるかに悪く見える。
指摘記事のリンク集
新倉本が招くヌレエフの誤解 - 一覧
さらにピックアップ
ジェラルド・リヴェラの夢想が実体験のような扱い
「魅惑する」が「激怒する」に
2. 知識のある人が読めば、事実でないとすぐ分かることが書いてある。
指摘記事のリンク集
翻訳に由来する『ヌレエフ』の間違い - バレエ一般
翻訳に由来する『ヌレエフ』の間違い - ヌレエフ
3. 筆者の叙述、登場人物の心理や行動に論理性や脈絡がない。
指摘記事のリンク集
新倉本『ヌレエフ』の不自然さ - このブログより
説明付きの一覧
新倉本『ヌレエフ』の不自然さ - 「三日月クラシック」より(1)
新倉本『ヌレエフ』の不自然さ - 「三日月クラシック」より(2)

原本にも間違いはありますが、それでも次のことは訴えたい。

  • 「完璧なダンサーだったが性格は最悪で、いつも周囲の人間を思うがままにねじふせていた」というヌレエフのイメージは、多分に新倉真由美と文園社による誇張。
  • 原著者Meyer-Stableyは、『ヌレエフ』を読んで想像するほど、誤りや意味不明な文を書き散らす三文ライターではない。

出版にはコストやスケジュールも考慮しなければならず、推敲が不十分なまま出版されることもあるでしょう。しかし『ヌレエフ』の場合、意図的に原文を無視したのかと勘繰りたくなる個所が多すぎます。

ブログ「三日月クラシック」とこのブログ

『ヌレエフ』の間違い探しは、もっと早くに別なブログ「三日月クラシック」で始まっていました。私がこのブログの開設にこぎつけたのは、「三日月クラシック」でやはり新倉本に疑問を抱く方々に出会い、意欲を燃やすことができたためです。

このブログは記事数が多いので、大きく取り上げたい重大な指摘もありますが、比較的小さい指摘のほうが多くあります。目立つ間違いを手っ取り早く知るには、「三日月クラシック」のまとめ記事群がお勧めです。上のリンク集でも、「三日月クラシック」由来の項目がたくさんあります。

『ヌレエフとの密なる時』の問題

『ヌレエフとの密なる時』(新倉真由美訳、新風舎)はローラン・プティ著『Temps Liés avec Noureev』(Grasset)の邦訳本として、『ヌレエフ』より前に出版されました。訳者が同じなので心配になって原本と訳本を読み比べたところ、この訳本にも多くの誤りが見つかりました。目立つものをピックアップしてみます。

仏文解釈の失敗
すぐにはヌレエフと夜遊びできなかったプティ(1)
すぐにはヌレエフと夜遊びできなかったプティ(2)
バランシンへの賛辞にプティがうんざりしなくなった日
『Noureev』を参考に読んだ形跡のなさ
ゴーリンスキーはヌレエフの亡命地でなくエージェント
ヌレエフがダコタのアパートに行くのがまれ?
バレエの知識があればするとは思えない誤り
存在しなさそうな技法マネージュ・コンポゼ
ポワントのダブル・フェッテをできるのが世界に一人?

語学力不足や不注意は否めないし、『Noureev』を参考文献にしたわりには調査も甘い。でも悪質な省略はないし、意図的な原文無視を疑うことも少ない。せめて『ヌレエフ』もこのレベルの翻訳だったら、あそこまでの惨状にはならなかったでしょう。

とはいえ、原書の文字数が少ない割に『密なる時』に誤訳が多いのは確かです。私はかつてこの本を要約紹介したブログ記事に感動し、そのときヌレエフの名を知りました。プティの文は難しいので、私にも正しく解釈できないことが多く、私にできることに限界はあります。しかしこの本でプティが何を書いたのかは、力の及ぶ限り正しく伝えたいと思います。

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コメント

コメントをありがとうございます

Telperionさま、久しぶりに仏和辞書を引っぱり出して少しずつですがブログを拝読しています。
先頃は私のブログへコメントを下さりありがとうございます。
目下、『バッキンガム宮殿の日常生活』の記事を読んでいますが、見たところかなり駄目な翻訳のようですね。
La famille royale passe pour jardinière dans l'âme, à l'instar d'Édouard VIII, devenu duc de Windsor :
この辺りなど辞書にあたればまず間違わない易しい仏文だと思いますが、能力がよほど足りないのがそれともちゃんと訳そうという意識がそもそも希薄なのか、むしろその両方であるのか、何れにせよ正直言って翻訳の仕事をしてはいけないレベルだと思えます。
落合恵子もそうですが、翻訳への使命感を、また翻訳を終えての達成感を熱心に語るような翻訳者ほどかえって駄目なのではないかと疑念を抱きました。

原著自体の比較の点から、落合訳に対する怒りとやりきれなさの方が大きいでしょうとお言葉をいただきましたが、新倉真由美訳以外には翻訳がなく他に選択肢がない、という事態は怒りとやりきれなさをいっそう大きくするに違いないでしょう。
また頼れる他の訳があった私の場合とは事情が違い、より難しくより慎重さを意識しなければならないだろうと推察いたします。

落合の『海からの贈りもの』を批判するブログを始めてより常々、原著は簡単に買えて誰でも発表ができる今の時代なのだから、目に余るひどい翻訳があればやはり指摘したほうがいい、それで翻訳者、出版社や編集者が「これはあんまりテキトーなこともできないな」と少しは気を引き締めるようになったほうがいいと思っておりましたので、あのようなコメントをいただき嬉しくまた心強く思う次第です。

それにしても、バレエをほとんど知らない私でもヌレエフの名前は知っているというのに、彼に関するちゃんとした本が日本語で読めないというのも驚いた話ですね。
ゆっくりではありますが、引き続き読ませていただきます。
 
2014-05-26 22:21  Tyurico  編集

すいません、誤字がありました。

能力が足りないのが

能力が足りないのか、でした。
2014-05-26 22:26  Tyurico  編集

訪問ありがとうございます

Tyuricoさま、

仏和辞書を取り出してまでじっくり読んでいただき、ありがとうございます。何か間違いがあったら、遠慮なくおっしゃってくださいね。私自身、今まで何度も自分の誤訳に気づいているので。

『ヌレエフ』や『バッキンガム』を読んでいると、新倉真由美にとっての翻訳とは、「単語の意味を憶測し、適当に抜き出して組み合わせ、自分好みのきれいな言葉に直す」、そう見えます。『バッキンガム』は宮殿案内しか読めない都合上、『ヌレエフ』や落合恵子本のように悪質な書き換えは見つからないでしょうが、構文無視や仏和辞書無視は半端でありません。『密なる時』すら「翻訳家を志すなら語学力を何とかしないと」と言いたくなるというのに、ますます悪化したような。

Webで読んだ『密なる時』のレビュー記事の1つによると、昔あった音楽之友社の雑誌「Ballet」で、『密なる時』の原本の邦訳が連載されたそうです。そのレビューでは、連載訳のほうが「もう少しダイレクトに意味が入ってくる」とは書いたものの、2つの訳の違いが文体だけのような言い方でした。連載訳者の藤原敏史に新倉真由美と同じ傾向がない限り、内容についても「どちらが正しいのだろう」と疑問がわくほどの違いがあったはずですが。読めなくて残念です。

耳触りがいい表現が散りばめられていることを最も重んじる観点からだと、好きになる人もいるだろうという点でも、落合恵子と新倉真由美は似ています。でも私にとって、翻訳とは原文を読みたい人への橋渡しになるものです。自分の主張や文章力を誇示するのが最優先で、原文をろくに読む気もないなら、訳書出版などしてほしくありません。私のほうこそ、Tyuricoさまが思いを同じくしていることを心強く思います。
2014-05-28 18:38  Telperion  編集
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