チャンスをつかんだのは仮定でなく事実

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』P.89:
もし一度でもチャンスがあったら私は飛びついてつかんだでしょう。
Telperion訳:
機会が生じたらすかさずつかみ取る、それだけです。
原本『Noureev』:
Si une occasion se présente, je la saisis au vol, c'est tout.

1991年6月17日のフィガロ紙のインタビューで「逃亡(亡命)する決心を前からしていたのか」という問いをヌレエフが否定し、「一人では決められなかったでしょうし、勇気もなかった」の後にこう続ける。

当時チャンスをつかんだヌレエフ

この条件文の動詞の時制は、条件節の動詞"se présente"(生じる)も、結果を述べる主文の動詞saisis(つかむ)も、直説法現在。つまり、この文は亡命当時のみならず、現在も成り立つ内容。ヌレエフが機会をとらえるのに敏感なのは当時も今も変わらないことを示している。

亡命当日、ヌレエフはソ連送還を言い渡され、クララ・サンにフランスの刑事の存在を知らされ、その刑事に政治的保護を申請した。これはヌレエフが機会をとらえた例のなかでもとりわけ劇的なもののひとつ。その出来事を思い起こしながらヌレエフの発言をたどっていくと、「亡命する決心はしていなかった。しかし機会があったから私はつかみ、亡命を果たした」という意味だと分かる。

実際のことでないような印象の新倉真由美訳

新倉真由美の文では、仮定と結果の動詞がどちらも、「(チャンスが)あったら」「飛びついてつかんだでしょう」という過去形。このため、英語での仮定法過去のように、現実には起こらなかったことを述べているような印象がある。実際にはチャンスはなかったので、ヌレエフはチャンスをつかむことができなかったと。訳文では「一度でも」が加わっているため、なおさら「チャンスは一度もなかった」という印象が強い。

日本語では、仮定文の動詞が過去形だからといって、現実と異なる仮定を表すとは決めつけられない。それにヌレエフがチャンスをつかんだのは事実から明らか。「チャンスがあったらつかんだでしょう」という文は想像でなく事実を語っていると推測するのは、不可能ではないだろう。しかし私の場合、原文ならヌレエフの主張がすらすらと頭に入るのに、新倉真由美の文だと迷いながら読むことになった。

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