伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヌレエフの動揺を答えとする疑問

『密なる時』P.90-91:
医者が落ち着き払った穏やかな声で、非常に慎重に採血した君の血清の検査結果をプラスであると告げた時、一体何をすべきであったのだろう。
プティ原本:
Quel effet cela doit-il faire lorsque avec beaucoup de précautions et avec une voix calme et posée le docteur qui vient vous donner les résultats de votre prise de sang vous annonce que vous être séropositif ?
Telperion訳:
とても注意を払いながら落ち着いた物静かな声で、君に血液検査の結果を伝えに来た医者が、君がHIV陽性だと告げた時、その影響はどれほどだったに違いないだろうか。

HIV陽性を告げられたヌレエフの「そんなはずはない」という内心の叫びをプティが想像したときの前置き。

プティが考えたのは告知のショック

この文の中心となるのは、疑問文"Quel effet cela doit-il faire ?"。

  • doitには英語のmust同様、「~でなければならない」「~に違いない」という2とおりの訳し方がある。
  • "faire effet"または"faire l'effet"は「印象を残す、効果をもたらす」というイディオム。
  • celaは前に述べたことを指す代名詞。

病名告知の場面なのだから、「それはどのような印象を残さなければならないのか」よりは「それはどのような印象を残すに違いないのか」だろう。その問いへの答えとして、プティが想像した「そんなはずはない」というヌレエフの心の叫びが続く。

新倉真由美はこの文を「一体何をすべきであったのだろう」としたが、それには不自然な点が3つある。

  1. プティが想像したヌレエフの内心は、「何をすべきであったのだろう」という問いへの答えにまったくなっていない。
  2. 「一体何をすべきであったのだろう」に主語はないが、人なのは確か。でも原文の疑問文の主語はcela。代名詞celaが人物を指すことはほとんどない。
  3. effetは「結果、効果、影響」といった、何かが起こった結果として生じることを指す。まだ行われていないことを指す言葉には見えない。

慎重にしたのは採血でなく告知

「医者が君に告知する」という意味の文(le docteur から文末まで)には、et(そして)で結ばれた次の2つの語句が付いている。

  • avec beaucoup de précautions (非常に注意して)
  • avec une voix calme et posée (落ち着いた物静かな声で)

一般に、etで結ばれた語句は構文解釈的に同じ役割を持つ。この場合、どちらも医者がヌレエフに告知するときの態度を形容している。

新倉真由美の解釈は次の点がおかしい。

  1. 2つの語句のうち片方が「採血した」、もう片方が「告げた」を形容している。つまり2つの役割が違う。
  2. そもそも原文に「採血した」にあたる言葉はない。

更新履歴

2014/9/23
引用部分の文脈の説明を分かりやすくする

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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