「バレリーナへの道」の新倉真由美コラム - 振付への視線

文園社のヌレエフ特集を読んでからたまっているものを、もう少し吐き出さないとすっきりしそうにありません。前回からだいぶ経ちましたが、続けます。

ヌレエフの言葉に共感するそぶりと現実

新倉真由美のコラム「ルドルフ・ヌレエフの生涯」を読んでいて、「同じことを『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』訳者あとがきでも書いていたっけ」と思い出した個所は他にもあります。

ヌレエフは自分の振付作品が上演される限り、その中で生き続けると語っていた。彼の功績と精神は時を超えて後進たちに受け継がれ、ダンサーたちが踊る度に不死鳥のように甦るに違いない。

訳者あとがきの対応する文はこちら。

ヌレエフは多くの振付作品を残しており、それらが上演される限り自分は生き続けると言っていました。作曲家が演奏するたびに蘇り、没した作家とも作品の中で対話できるように、ヌレエフの魂は彼が何より愛したバレエの中で永久に不滅であり、その教えは後進の人びとに脈々と受け継がれていくでしょう。

どちらも最終段落。特集コラムではヌレエフの生涯について、訳者あとがきでは訳本出版への情熱に燃えた自分について、熱弁を振るった後のまとめになります。そこにこうあれば、新倉真由美はヌレエフの言葉に心から共感していると推測したくなります。でも、この後にこう付け加えたら、どういう印象になるでしょう。「私自身はヌレエフの振付作品を観ませんが」。

ヌレエフ特集でのコラム執筆時点でどうだかは分かりませんが、『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』翻訳時点での新倉真由美の知識については、訳本を読むといくつかのことが分かります。

もしかして新倉真由美は、ヌレエフの精神を受け継ぐのはヌレエフ作品を踊れるダンサーだけの特権であり、アマチュアの自分には関係ないと思っているのでしょうか。でも「没した作家と作品の中で対話できる」とは、作家と演じ手だけでなく、作家と観客や聴衆の間でも成り立つのではありませんか? ヌレエフの魂が振付作品に宿ると本気で考える人なら、振付作品を見ることでヌレエフに触れたいと考えそうなものです。上記の3作はパリ・オペラ座バレエの映像が発売中。思い立ちさえすれば、見るのは簡単なはずですが。

原本に熱狂するそぶりと現実

ヌレエフへの思い入れ以前の問題として、原文の背景を調査するのは翻訳には必須な作業のはず。たとえば、「踊りながら花びんを捧げ」で踊っているのは刺客とニキヤのどちらなのか、原文を読むだけでは判別できません。そこで「バヤデール」についての文を読むとか、映像を見るとかすることになります。とはいえ、調査には時間がかかるから、行き届かない個所があっても仕方ないでしょう。でも新倉真由美は『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』訳者あとがきで、

夢中で文字を追いながら、私はヌレエフの人生を何度も繰り返したどりました。

と書いています。何度も読んだ上で訳書出版を思い立ったと。それなら、調べる時間は十分にあったはず。それにヌレエフの伝記でヌレエフの振付作品の説明が間違っていたらみっともない。優先的に調べるべき個所と思います。

実際のところ、繰り返し真剣に読んだ上であのケアレスミスの多さって、あり得るんでしょうか。辞書や他の参考文献などを見ないで飛ばし読みしたゆえのミスのほうが、よほどもっともらしいですが。1人で読むなら飛ばし読みも勉強になりますが、出版しようとするときにそれはちょっと…。

翻訳の価値は訳文自体によって測られるものであり、それに比べれば訳者の行動は重要でありません。心底ヌレエフに心酔していれば『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』のような訳本を世に出してもいいわけではありませんから。それでも、私が『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』を原本と読み比べるうちに浮き上がってくる新倉真由美像は、訳者経歴で印象付けているような語学の得意なバレエ通からも、訳者あとがきで自己申告しているようなヌレエフの心酔者からも、かけ離れています。話題にしたくはなりますね。

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