感じが悪くなったポントワによるヌレエフ評

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』P.211:
ルドルフはほとんど私生活もなく腹心の友も持たずひとりぼっちでした」
Telperion訳:
ルドルフは孤独な人で、縁故もなく、私生活もほとんどありませんでした」
原本『Noureev』:
Rudolf était un solitaire sans attaches, presque sans vie privée. »

ノエラ・ポントワによるヌレエフ評の一部。

ヌレエフにないのは腹心の友でなく縁故

attacheは「つなぐもの」というのが基本的な意味で、人間関係を指す場合は「縁故、コネ」。「腹心の友」というほど緊密な関係ではないらしい。ラルース仏語辞典で人間関係を指すattacheはこう説明されている。

Liaison, relation qui fait dépendre quelqu'un d'une autre personne ou d'un milieu (surtout pluriel) : Avoir des attaches avec la police.

ある人を別の人や環境に依存させるつながり、関係(とりわけ複数形): 警察とのコネがある。(Telperion訳)

実際、ポントワがヌレエフを「縁故がない」と評するのは、中立的な論評だと思う。ヌレエフはキーロフから1人西側に飛び出し、ロイヤル・バレエでも正規の団員にはならず、あちこちのバレエ団と仕事をしていたのだから。ところが、新倉真由美の「腹心の友も持たず」という言葉には、友情をはぐくめないヌレエフへの非難がこもっているように見える。

ポントワが親ヌレエフとされることと辛辣な新倉訳の矛盾

原著者メイエ=スタブレ(Meyer-Stabley)は「フランスの女性ダンサーたちはヌレエフの最上の広告代理業者となる」と書き、その前後にギレーヌ・テスマーやジャクリーヌ・ライエによる賛辞を並べ、次にポントワの言葉を載せている。「広告代理業者になる」というのはヌレエフを売り込むことだろうし、テスマーやライエの発言は実際にそうなっている。それと並ぶポントワの発言も、ヌレエフに好意的だと予想してよい。

同じフランスのダンサーでも、ウィルフリード・ピオレはヌレエフを「他の誰よりも何度も世界最高のダンサーの地位にいた」と認めつつ、「同レベルのダンサーならオペラ座にもいる」と冷めてもいる(「三日月クラシック」の原文比較2より「P.210 彼に最も忠実だったのは~」の項を参照)。そのピオレをメイエ=スタブレは広告代理業者の例から外した。

もしポントワの言い方が新倉真由美の言うように批判的なら、メイエ=スタブレはテスマーやライエでなく、ピオレとともにポントワを並べたのではないだろうか。広告代理業者云々の原文を読んでからというもの、新倉訳のポントワ発言のとげがずっと気になっていた。

非難めいた言い方はもう一つある

ポントワの発言を訳本で読むと、ヌレエフを非難しているような言い方がもう一つある。

訳本
でも著名人を気取ってもいました。
原本
Mais il jouait aussi un personnage.

「腹心の友」と訳すのは原文どおりとは言えないattachesと違い、"jouer un personnage"を「著名人を気取る」と訳すのは単語の意味的に可能に見えるので、間違いだとは言わない。

ただ、仏和辞書を読む限り、「~を気取る」という表現には前置詞àを使う"jouer à ~"のほうがよく使われるらしい。ポントワの談話では前置詞が使われておらず、その場合の(つまり自動詞または間接他動詞でなく単なる他動詞である)jouerには単なる「~を演じる、~の役を担う」という意味もある。最初に書いたMeyer-Stablbeyによる引用の文脈を考えると、私なら非難めいた訳は避けておく。

2013/6/2
実はテスマーによる賛辞は問題の引用文の直前にあるので、「~と書いてから、テスマーやライエによる賛辞を並べ」を「~と書き、その前後にテスマーやライエによる賛辞を並べ」に修正。
2016/5/11
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