伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

『密なる時』最終章は夢かうつつか

記事「断定を回避する癖 」の続きです。あの記事で挙げたものは、翻訳ミスとして扱えるか、さらっと言及できる程度の違和感を持つかのどちらかでした。この記事で取り上げるのは、そのどちらでもありませんが、あの記事を書く気になった最大の動機です。

『密なる時』P.102:
その比類なき傑作の中で、愛するオデットを探しながら白鳥から白鳥へと走り抜けていく彼の姿が、私には見えたような気がした。彼は現代的なロマンティシズムの激しさをそこに加えていた。
プティ原本:
Je le vois encore courant d'un cygne à l'autre, cherchant sa bien-aimée dans ce chef-d'œuvre auquel il apportait la violence de son romantisme contemporain.
Telperion訳:
彼が自らの現代的なロマンチズムの激しさをもたらしたこの傑作で、愛しい人を探して白鳥から白鳥へと走っていくのが、私には再び見えた。

私にとって思い入れの深い『ヌレエフとの密なる時』最終章から、ヌレエフの死後に舞台衣装を手に入れたプティの思い。新倉真由美の文は練り上げられているのに、なんですか、「ような気がした」って。

この文の主文の動詞voirは、英語のseeと同じく、とてもよく使われる動詞であり、多くの意味があります。その中で真っ先に挙げられるのは「見る」。「夢見る」とか「将来を思い描く」とか、実際には目の前にないものを見た気になることを表すのにも使われますが、それはそういう文脈でも使われるということであり、voirという単語自体に単なる想像という含みがあるわけではありません。そして上記のプティの文自体にも、それが想像だということを示す言葉はありません。

プティは最終章の冒頭で、"entre songe et réalité"(夢とうつつの間で)と書いています。しかし「夢の中で」とは書かなかった。そして以降の文で、本当にあったことのように、ヌレエフとの束の間の再会を書いているのです。「まさかこんなことが実際に起きたわけはないよねえ」とは思います。でも私はその常識を頭の片隅に置きながらも、「プティは本当のことだったらと願っているだろうし、本当にあってもいいじゃないか」というつもりでこの章を読んでいます。

ジークフリートの衣装をまとって走るヌレエフは、そのときプティが見たものではありません。しかし、「本当にあったと思ってもいいじゃない」と思えるという点では同じ。ここを「本当に見えたのではない」と断定することは、私にとってこの最終章に「ヌレエフは私の方に近づいてきたと私は思い込んだ…私たちは踊り始めたつもりになった…彼は消えてしまったという気がした」と追記するに等しく、それを言い出したら最終章の位置づけが揺らぐような異議です。読者が「それって気のせいだから」と断定するならそれもよい。しかし原著者が事実と区別がつかない書き方をしているのに、訳者が「気のせいなのは自覚しています」という文に書き換えるのは、私にとって誤訳でなくても間違いなく改悪です。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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