断定を回避する癖

『ヌレエフ』や『ヌレエフとの密なる時』を読んでいて気が付いたことの一つに、新倉真由美には原文が断定文でも訳文に「かもしれない」を追加する癖があるらしいということがあります。その程度のことは訳者の裁量のうちかも知れず、一概に翻訳ミスとは呼びたくありません。しかし新倉真由美の「かもしれない」の多用にひっかかりを感じるのも確かなので、その気持ちを吐き出すことにしました。

過去記事からの列挙

まずは、過去記事に含まれるものを。原文と私の訳はリンク先に譲ります。

記事「踊りと映画の比較は経験談か、一般論か」より
映画の俳優たちはそういう状況に充分慣れてないかもしれませんが、
記事「用途が不明確な手紙に署名? (続)」より
日刊紙に送られて記事になるかもしれません。
記事「異なる性質の成功」より
彼の別の一面を引き出したのかもしれない。

最後の項の問題は「かもしれない」の追加だけではないのですが、原文に「かもしれない」に当たる言葉がないのに訳文に加わったという例にはなります。

新たな列挙

次に、原本を読んでいて、「これを訳すのに『かもしれない』は要らないだろう」と思ったものを。

『ヌレエフ』P.196-198:
タイミング良く西欧に渡ったのも彼の力量かもしれない。
Meyer-Stabley原本:
Sa force est qu'il arrive en Occident au bon moment.
『ヌレエフ』P.195:
家を増やしていくことで、祖国を失い根なし草のような空虚感を埋めようとしたのかもしれない。
Meyer-Stabley原本:
Accumuler devient une manière de combler le vide, le déracinement.

次のものは「かもしれない」のニュアンスがあるかどうかについて議論の余地があります。

『ヌレエフ』P.158:
「私は彼女と結婚すべきだったのかもしれない」(出典である『ヌレエフとの密なる時』P.42でも同様の扱い)
Meyer-Stabley原本:
« J'aurais dû l'épouser »

devoir(~するべきである)の時制は条件法過去。条件法の用法の一つに、断言を避けるというものがあるのは確かです。でも仏和辞書を読む限り、devoirの条件法過去は「~するべきだったのに」という後悔を表すほうがメジャーな用法に見え、「あの人と結婚すべきだった」と言い切っても翻訳ミスにはなりません。ましてフォンテーンについてのヌレエフの述懐なのだから、私なら断言にします。

あと一つ、「かもしれない」という言い回しではないのですが、原文による断定を新倉真由美が弱めた例があります。翻訳ミス扱いはしないとはいえ、私は違和感どころか拒否感を持ちました。しかし他の例とは釣り合わない長文になりかねないので、この個所については近いうちに単独の記事として挙げることにします。(→『密なる時』最終章は夢かうつつか)

原著者の好み、訳者の好み

断言するのとしないのとどちらが普通かは、言語ごとに違う文化があるでしょう。私自身、記事「ヌレエフのニヒルな発言とブルーンとの疎遠の関係」で、話し相手に面と向かって「君は知っている」と口にするのは頭ごなし過ぎると思い、「君は知っているだろう」と語調を弱めました。それでも、「翻訳先言語ではこの言い方のほうが自然」という事態でなければ、原著者が下した判断は尊重したいと私は思います。私が文を書くとき、断定的に書くか、それとも「~だろう」「~に見える」と弱めに書くかは、文ごとにそれなりに考えて決めます。原著者だってそうでしょう。

上に挙げた例は、指摘記事の主題として取り上げたものもあり、翻訳ミスというよりは違和感の範囲内のものもあります。しかしどれも、「かもしれない」を加える必然性があるとは思えず、加えたほうが自分の好みの文になるからではないかと疑っています。「ゴムを付け(I have put the plastic)」を「避妊に気を使い」としたように。新倉真由美は『密なる時』の訳者あとがきでこう書いていますが、どうも私には言行不一致に見えます。

その言葉や表現、あるいは行間から感じられるニュアンスをどうしたらそのまま伝えることができるかと試行錯誤を繰り返し行う翻訳の作業は、苦しいながらも楽しいものでした。
2013/5/12
『ヌレエフ』P.195からの引用を追加
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