ダンサーだったのはヌレエフでなくケン・ラッセル

『ヌレエフ』P.232:
しかし結局彼はこのイギリス人監督が映画“イサドラ”を製作したことと彼自身がダンサーだったのを考慮しその申し出を受けた。
Telperion訳:
しかし、このイギリス人がもう監督していた「イサドラ」、そしてラッセルがかつてダンサーだったことを考え、ついに引き受けた。
原本『Noureev』:
Mais il finit par dire oui, en songeant à I'Isadora déjà réalisée par l'Anglais et au fait que Russell a été danseur.

1970年代半ばにヌレエフがケン・ラッセル監督「ヴァレンティノ」の主演要請を受けたことについて。

彼自身とは誰のことか、私には確定できず、原文を読むまで「ダンサーであるイサドラ・ダンカンの映画を撮ったラッセルをダンサーであるヌレエフが尊重したのか? それともラッセルがダンサーだったのか?」と迷い続けてしまった。原文ではダンサーだったのはラッセルだと明記してある。

原文で「彼はついに承諾した」(il finit par dire oui)の時制は直説法現在、「ラッセルがダンサーだった」(Russell a été danseur)の時制は直接法複合過去。ラッセルがダンサーだったのは、ヌレエフの承諾より前の出来事だということが、時制の違いから分かるようになっている。

ケン・ラッセルのダンサー歴

ラッセルが実際にダンサーだったことを裏付ける資料は実在する。

英インディペンデント紙の訃報記事より

prior to becoming a dancer with the Ny Norsk Ballet in 1950,

その後で1950年にNy Norsk Balletでダンサーになり、(Telperion訳)

英テレグラフ紙の訃報記事より

For five years he attended dance school and toured with dance troupes, before finally accepting that he was not a good dancer.

5年間ダンス学校に通い、ダンス・カンパニーとツアーし、その後でとうとう、自分が良いダンサーでないことを受け容れた。(Telperion訳)

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