伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ブルジェ空港のKGBとCRS

『密なる時』P.14:
KGB(ソ連の国家保安委員会)はソ連市民であるヌレエフの自由を阻止するため、私服の警官を使って非常警戒網を張りめぐらせていた。フランスのCRS(共和国保安機動隊)はKGBの意図を測りかねながら、あらゆる偶発的な亡命の事態に備え、空港のあちらこちらに巧妙に配置されていた。
プティ原本:
Le KGB, pour entraver la liberté du citoyen soviétique, avait organisé un barrage fait de policiers russes en civil accompagnés de CRS français qui se demandaient ce qu'ils faisaient là, savamment dispersés dans l'aéroport pour pare à toute éventuelle évasion.
Telperion訳:
KGBはこのソ連国民の自由を妨げるために、フランスのCRSに同伴された私服のロシア警官でできたバリケードを組織していた。ロシア警官たちはここで何をしているのかと自問しながら、発生しうる脱走に対処するために空港内で巧みに分散配置されていた。

KGBの行動

関係節"qui se demandaient ce qu'ils faisaient là"の述語"se demandaient"(自問していた)は三人称複数の活用形なので、その主語である先行詞は三人称複数の名詞だと分かる。しかし、関係節の直前にある"CRS français"は、形容詞françaisの語尾が単数形なことから分かるとおり、単数形。したがって、この関係詞が修飾するのは、CRSの前にある"policiers russes en civil"(ロシアの私服警官たち)。警官たちの自問の内容である"ce qu'ils faisaient là"は間接話法で書かれており、直接話法で書くと、« Que faisons-nous ici ? »(私たちはここで何をしているのか)。

関係節の後の分詞構文"savamment dispersés dans l'aéroport pour pare à toute éventuelle évasion"(発生しうる脱走に対処するために空港内で巧みに分散配置されていた)は、過去分詞dispersésの語尾が複数形なので、これもロシア警官を指している。仏和辞書にあるévasionの意味は「脱走、逃避」など。この単語はソ連警官の行動について書いた文の中にあるので、西側から見た「亡命」ではなく、ソ連側から見た呼び方をしている。

CRSの行動

CRSは"accompagnés de CRS français"(CRSに伴われ)という形でロシア警官たちを修飾しており、原文でCRSについて書かれているのはこれだけ。ブルジェ空港のKGBにCRSが同伴していたというのは初耳だし、プティの話がすべて事実とは限らないが、KGBとCRSが共同でバレエ団の安全を確保するという名目を立てるのは、ありえない話ではない。

亡命者を支援するためにフランス政府が人員を配置するよりは、逃亡を恐れてソ連政府が人員を配置するほうが、ありそうだと思う。亡命先の憲兵が潜んでいても、それをあらかじめ想定するわけにはいかない亡命者にとってはあまり役に立たないだろうから。ヌレエフの亡命を助けた警官たちも(彼らの職業については「三日月クラシック」の記事から「P.97 出入国検査官」の項を参照)、クララ・サンに助力を乞われて初めてヌレエフのそばに行っている。

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

カテゴリ
タグ

マーゴ・フォンテーン エリック・ブルーン ノートルダム・ド・パリ パトリック・デュポン マリア・トールチーフ ミック・ジャガー 

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

検索フォーム