伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

相手に下した判断を隠さない一瞥

『密なる時』P.37:
わが友は、彼にとって価値のない人たちに虚勢を張ったりお高くとまったりはしていなかったが、相手を見下すような態度を取ることはあった。そして鋭い一瞥で、相手が敵か味方かをとても正確に見抜くことができた。つまり腕相撲のように素手で正々堂々と戦える人かどうか、一緒に踊れるかどうか、あるいは敵対し口汚い言葉で罵る相手かどうか、それをまるでシャッターを切る時のように瞬間的に識別する能力を備えていたのだ。
プティ原本:
Mon ami n'est pas crâneur pour deux sous, pas la grosse tête, simplement un air qui défiait ses interlocuteurs, un simple coup d'œil photographique avec une idée très précise de l'ami ou de l'adversaire susceptible de jouer avec lui au bras de fer ou au bras d'honneur.
Telperion訳:
わが友はつまらぬものに対して威張らず、自信過剰でなく、単に相手に挑む雰囲気、写真のような一瞥だけだった。その一瞥には、彼と腕相撲や挑発のポーズをして遊ぶに足る友または対戦相手についてのとても正確な考えが映し出されていた。

相手の性質について考えること

構文解釈

"une idée"(考え)から文末までは、ヌレエフが何を考えているかの説明。この考えがどういうものかを見るため、"une idée"より後の語句をいくつかの部分に分け、それぞれの役割を示す。

"une idée"を形容する
  1. très précise (とても正確な)
  2. de l'ami ou de l'adversaire (友または対戦者についての)
「友または対戦者」を形容する
susceptible de jouer avec lui (彼とともに遊ぶに足る)
遊びの内容。次の2つがou(または)で結ばれている
  1. au bras de fer ou (腕相撲で)
  2. au bras d'honneur (挑発のポーズで)
au (à leの縮約形)で始まる語句が遊びの内容なのは、"jouer à ~"(~をして遊ぶ)というイディオムの一部だから。

これらを再構成した全体の訳が、私が上で書いた「彼と腕相撲や挑発のポーズをして遊ぶに足る友または対戦相手についてのとても正確な考え」になる。

新倉真由美の言い換えの不穏さ

上に書いたヌレエフの考えを新倉真由美はこう書いている。

  • 相手が敵か味方か
  • つまり腕相撲のように素手で正々堂々と戦える人かどうか、一緒に踊れるかどうかあるいは敵対し口汚い言葉で罵る相手かどうか

新倉真由美はプティの使った言葉に自分の連想を盛り込み過ぎていると思う。1つずつ見ていこう。

素手で正々堂々と
プティは腕相撲(bras de fer)という言葉を他の個所でも使っている。
  1. プティが憶測したヌレエフの意図 - 挑発
  2. 筋力と知性の勝負
これを見る限り、腕相撲とは単にどちらの力が強いかを競う勝負のたとえ。「素手で正々堂々と戦う」は新倉真由美が腕相撲に抱くイメージなのだろうが、プティがそういう意味を込めているようには見えない。
口汚い言葉で罵る
"bras d'honneur"はポーズの名前で、どういう格好なのかはgoogle画像検索で見ることができる。かなりお下品なポーズらしいが、それでも言葉を伴わないポーズを当然のように「口汚い言葉で罵る」とは言い換えられない。
一緒に踊れるかどうか
根拠となる原文がない。実際、少し前(『密なる時』P.36)には「普通ヌレエフはパートナーとして組むことを決める前には厳しいテストを行うのだが」と書かれている。ヌレエフはひと目見ただけでパートナーの踊りの素質を判断しているわけではなさそう。

見抜くのでなく見せる一瞥

ヌレエフの一瞥(coup d'œil)を修飾する重要な言葉を2つ挙げる。

photographique
基本的な意味は「写真の」。転じて「写実的な、写真のように正確な」という意味にもなる。ラルース仏語辞典では関連語photographie(写真)について、次の比喩的な意味を載せている。
Description précise et objective visant à définir un état, à un moment donné :
ある時点の状態を定義することを目的とする、正確で客観的な描写
avec une idée très précise (とても正確な考えとともに)
「考えを求めて」でなく「考えとともに」。ヌレエフが相手に一瞥を投げるとき、考えがすでに存在している。つまり相手に対する判断は下された後なのだろう。

新倉真由美は2つの言葉を次のように訳している。

  • とても正確に見抜くことができた。
  • まるでシャッターを切る時のように瞬間的に識別する能力を備えていた

私が上で書いたこととは、2つの点が違っている。2番目の点は個人の見解の相違ですむかもしれないが、1番目の点は譲れない。

  1. 「シャッターを切る時のように瞬間的に識別する」はカメラの能力。「写真のような」という表現にそぐわない。
  2. 一瞥してから見抜くのだから、見るときにまだ自分の考えは定まっていない。

ヌレエフの一瞥とは、自分の考えを写真のように正確に見せる一瞥なのだろう。相手の内心を見る一瞥ではなく、自分の内心を相手に見せる一瞥。

更新履歴

2014/9/27
  • 箇条書きを多用して書き直し
  • ラルース仏語辞典の引用を追加

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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