疑念をかきたてたのは昔の思い出

『ヌレエフとの密なる時』P.71-72:
大勢の共演者の面前でレッスンしている姿を幾度となく見るたびに、これは私をまったく軽蔑していることをあてつける表現なのではないだろうかと自問自答することさえあった。
Telperion訳:
多くの仕事仲間に面と向かって彼が行うのをあれほど何度も見てきたような、完全なる軽蔑の表現でないのかどうか、自問するに至った。
原本『Temps Liés avec Noureev』:
j'en arrivais à me demander si cela n'était pas l'expression d'un mépris total, comme je l'avais vu pratiquer tant de fois vis-à-vis de ses nombreux collaborateurs;

1983年の「ノートル・ダム・ド・パリ」ニューヨーク公演で、ルドルフ・ヌレエフの手抜きに見える稽古に苛立っていたローラン・プティによるさまざまな勘繰りのひとつ。

見たのは自問したのより前の出来事

  • "j'en arrivais à me demander"(私は自問するに至った)の時制は直説法半過去
  • "je l'avais vu practiquer(彼が行うのを私が見た)の時制は直説法大過去

時制の違いから、ヌレエフの行いをプティが見たのは、プティが自問するより前の思い出だと分かる。

レッスンを見たのではない

仏和辞書にあるpratiquerの意味は「行う」「実践する」。英語のpracticeと違い、「練習する」という意味では使わないらしい。まして原文に「レッスン」にあたる単語はないので、動詞pratiquerが単独で「レッスンする」にはならないだろう。

pratiquerがある節(comme以降文末まで)の前に「完全なる軽蔑の表現」(l'expression d'un mépris total)とあり、これがpratiquerの目的語と思われる。この場合の「行う」とは、軽蔑の表現をして見せることだろう。

自問と自問自答の違い

"se demander"は単に「自分に問う」。プティはヌレエフの気のない態度について「挑発する気か」とか「観客をなめているのか」とかいろいろな可能性を考えている。しかしその中のどれが正しいのかを決定した様子はない。つまり、自問はしても自答はできなかったのではないかと思われる。

新倉真由美は「自問する」を「自問自答する」と同一視しているらしい。ベジャールとの連名公開書簡を回顧するときも(『ヌレエフとの密なる時』P.79)、"Je me pose la question"(自分に質問を出す)を「自問自答する」としている。

主な更新

2014/6/19
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