プティは困難から逃げるヌレエフに失望した

『ヌレエフとの密なる時』P.71:
ヌレエフは、もし危険極まりない悪魔のような同盟契約に彼が署名したことを同業者たちが知ったら、自分が孤立してしまい、もはや踊ることは不可能になるのではないかとひたすら恐れていた。そのため、どんなに乗り越えがたく見える状況でも、できる限り立ち向かおうとしていた。こうして彼は障害をどうにか回避し、困難を軽減していった。
Telperion訳:
もし悪魔との契約に署名したことを同業者に知られたら、二度と踊れなくなり避けられてしまう。ルドルフはそれを非常に恐れていたため、乗り越えがたく思えるすべての状況を自分相応になるようにし、障害を避け、困難を軽くした。
原本『Temps Liés avec Noureev』:
Rudolf avait si peur de ne plus danser et d'être mis à l'écart si la profesesion apprenait qu'il avait signé un pacte avec le diable, qu'il faisait en sorte de mettre à ses mesures toutes les situations qui lui semblaient insurmontables, il évitait les obstacles et allégeait les difficultés.

1983年、ヌレエフとローラン・プティが何年も絶交する引き金を引いた「ノートルダム・ド・パリ」ニューヨーク公演の稽古の様子。

仏文解釈

ヌレエフが恐れのあまりしたことは、次の3つ。

il faisait en sorte de mettre à ses mesures toutes les situations qui lui semblaient insurmontables (彼には乗り越えがたく思えたすべての状況を彼に釣り合ったものになるようにした)
évitait les obstacles (障害を避けた)
allégeait les difficultés (困難を軽くした)

このうち、最初の行動は文法が込み入っているので、もっと詳しく説明する。この文を前半と後半に分けると、こうなる。

前半
il faisait en sorte de (彼は~になるようにしていた)
述語はイディオム"faire en sorte de ~(不定詞)"(~なるようにする)の直説法半過去形。
後半
mettre à ses mesures toutes les situations qui lui semblaient insurmontables (彼には乗り越えがたく思えたすべての状況を彼に釣り合ったものにする)
前の部分に続く不定詞、つまりヌレエフがしようとしたこと。イディオム"mettre A(目的語) B"(AをBという状態にする)を使っている。
A(ある状態にさせられること)
toutes les situations qui lui semblaient insurmontables (彼には乗り越えがたく思えたすべての状況)
B(あるべき状態)
à ses mesures (彼に釣り合った)

Bの方が短いために、原文ではAとBの順序が逆になっている。

この部分はプティのヌレエフ批判の一部

上記の説明だけでは、ヌレエフが具体的に何をしたのか分からないので、引用部分の後も読み進める。すると、プティは「だからヌレエフはカジモドを踊っていた(ただし原文ではNoureevでなくRudolf)」と続け、その様子を「手抜き」「私を失望させ」「私をまったく軽視していることをあてつける表現なのではないだろうか」(いずれも『ヌレエフとの密なる時』より)などと酷評する。

そのことを踏まえて引用部分を見返すと、プティがヌレエフの行いとして挙げた3つのことは、いずれも自分を高めて困難を克服するのではなく、困難さのほうに手を加えることでその場をしのぐという表現だと気づく。つまり、振付の難しい部分を省いて踊りやすくするということ。

契約への署名とは恐らくHIV感染

「悪魔と契約を結ぶ」という言い回しはフランス語にもあり、その「悪魔との契約」に当たるフランス語が"un pacte avec le diable"。通常は「悪魔と契約する」といえば、欲望のために人でなしに成り下がることだろう。しかし、契約への署名が知られた結果である「踊れなくなる」「避けられる」は、別なことが原因で実際に当時のヌレエフが直面していた脅威だった。

  • 『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』P.275を読むと、初めてミシェル・カヌシ医師のもとを訪れた1983年当時、ヌレエフはHIV陽性の噂が流れてアメリカに入国できなくなることを恐れていたと書かれている。引用文で書かれているのはまさに1983年のニューヨークでのこと。
  • HIV陽性のヌレエフと共演するのを嫌がるダンサーが続出するという恐れを抱いても不思議はない。

恐らく「悪魔との契約に署名する」とは、HIVに感染したことを指す。1983年はまだHIV陽性という診断が確定する前だが、カヌシの診断を仰ぎに行ったことで分かるとおり、ヌレエフは体の異変をすでに自覚している。

主な更新

2014/6/20
  • 文法説明を詳細にする
  • 悪魔との契約について書き直し
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