ゴーリンスキーはヌレエフの亡命地でなくエージェント

『ヌレエフとの密なる時』P.88-89:
ソ連のゴーリンスキーから亡命して以来、ヌレエフは年間何回となく地球上を旅し、日々の練習を欠かすことなく公演や仕事を引き受けてきた。彼の忠実なエージェントは、彼の国際舞台でのデビュー以降ずっと彼をサポートし続けていた。彼は時間を持て余している上流階級の人びとたちと過ごす社交界とのつながりも怠ることはなかったが、とりわけこの恐ろしい病気のケアを行っていたことも忘れてはならない。(Telperion注: ここで改行)
周囲の人間は常に彼を見守り、刻一刻苦しさと厳しさを増していく治療から彼を遠ざけようと努めていなければならなかった。
Telperion訳:
一年に地球を何周も旅行し、毎日のトレーニング、国際的キャリアの初期から彼を助けていた忠実なエージェントであるゴーリンスキーが死去してからは自ら引き受けていた公演とビジネス、ジェット族の社交生活を忘れることなく、そして何より、負担を強いてますます苦しくなる治療によって絶えず遠ざけようとしなければならなかった、この恐ろしい病。
原本『Temps Liés avec Noureev』:
Voyager autour de la terre plusieurs fois par an, l'entraînement quotidien, les spectacles et son business qu'il avait pris en main depuis la disparition de Gorlinsky, son agent fidèle qui l'avait aidé dès le début de sa carrière internationale, sans oublier les mondanités du jet-set, et surtout cette horrible maladie qu'il fallait sans cesse essayer de garder à l'écart par des soins exigeants et de plus en plus douloureux.

この文は、ヌレエフをわずらわせていた様々な事柄を列挙したもの。分かりやすさのために一部の修飾を省き、それらを箇条書きにしてみる。

  1. Voyager autour de la terre plusieurs fois par an (一年あたり数回地球を周って旅行する)
  2. l'entraînement quotidien (毎日のトレーニング)
  3. les spectacles et son business qu'il avait pris en main depuis la disparition de Gorlinsky (ゴーリンスキーの死去以来、彼が引き受けていた公演とビジネス)
  4. sans oublier les mondanités du jet-set (ジェット族の社交生活を忘れない)
  5. surtout cette horrible maladie (何よりこの恐ろしい病)

ゴーリンスキーとは

文中にある耳慣れない固有名詞Gorlinskyとは何のことか。実は、新倉真由美が参考文献として『密なる時』P.83で挙げた本『Noureev』に答えが書いてある。ヌレエフの仕事と財産を管理していたSandor Gorlinsky。新倉真由美は後に『Noureev』の訳本として『ヌレエフ』を出版し、そのP.191-2ページにGorlinskyの名は「サンドル・ゴリンスキー」として載っている。

原文にも、ゴーリンスキーが人の名だということを示す手掛かりはある。

職業の説明が続く
Gorlinskyのすぐ後に、次の名詞句が続く。
son agent fidèle qui l'avait aidé dès le début de sa carrière internationale"(彼の国際的キャリアの始まりから彼を助けていた、彼の忠実なエージェント)
「彼のエージェント」は明らかに人物の説明なので、先ほどの箇条書きで挙げた、ヌレエフを忙殺していた各種のことではない。だから直前にあるGorlinskyの説明だと見るのが自然。つまりGorlinskyはヌレエフのエージェントの名。
死去する
原文には"la disparition de Gorlinsky"とある。仏和辞書にあるdisparitionの意味は、「消失、死亡」といったところ。Gorlinskyがエージェントの名らしいということを考え合わせると、"la disparition de Gorlinsky"は「ゴーリンスキーの死去」だと推測できる。それ以後ヌレエフが自分で公演とビジネスを手掛けるのも、後任のエージェントが見つからなかったからだろう。

スキーで終わるソ連の地名より、スキーで終わるロシア語の人名のほうが圧倒的に多いはず。いくらdeに「~の」「~から」両方の意味があるといっても、disparitionの訳語としては無理な「亡命」を付けて地名扱いするより、辞書にある「死去」を付けて人名扱いするほうが自然。

治療でなく病から遠ざかる

先行詞は関係節の文の目的語

最後に挙がった"cette horrible maladie"(この恐ろしい病)は、直後のqu'から文末まで続く関係節に修飾されている。関係節がqu'(queの略)で始まる場合、qu'に続く関係節の文には目的語が欠けている。この場合、garderの後に目的語がない。欠けた目的語となるのが関係節の先行詞、この場合は"cette horrible maladie"。これを補充すると、関係節の文は本来このような形だと分かる。

Il fallait sans cesse essayer de garder cette horrible maladie à l'écart par des soins exigeants et de plus en plus douloureux.
(要求が多く、ますます苦しくなる治療によって、この恐ろしい病を絶えず遠ざけようとする必要があった。)

訳す上でのポイント

上の文を次のように分割すると、構成が分かりやすい。

主な文
Il fallait sans cesse essayer de (絶えず~しようとする必要があった
しようとしたこと
garder cette horrible maladie à l'écart (この恐ろしい病を遠ざけたままにする)
遠ざける手段
par des soins exigeants et de plus en plus douloureux. (要求が多く、ますます苦しくなる治療によって)

注意すべき語句について書く。

  • 2番目の部分では"garder A(目的語) B(属詞)"という表現が使われており、意味は「AをBのままにする」。問題の部分でAに当たるのが"cette horrible maladie"、Bに当たるのが"à l'écart"(離れている)。
  • parはいろいろな意味を持つ前置詞だが、ここでは「病を遠ざける」と「つらい治療」を結びつけているので、手段を示すと見るべき。

新倉訳の間違い1 - 見守る

先ほど述べたように、garderの目的語は病気。garderに「~の世話をする」という意味はあるが、ここでは使えない。しかし新倉真由美は「見守る」という訳語を採用するため、さらに無理を重ねた。

  • 見守る主体として原文にない「周囲の人間は」を創作
  • garderの目的語として原文にない「彼を」を創作

新倉訳の間違い2 - 治療から遠ざける

どうやら新倉真由美は"à l'écart par des soins"を「治療から遠ざかる」と解釈したらしい。イディオム"à l'écart de ~"(~から離れて)からの類推ではないかと思う。しかしここでécartの後に続く前置詞はdeでなくpar。この違いは無視できない。

新倉訳の間違い3 -関係節と先行詞を無関係にする

新倉真由美が関係代名詞qu'をピリオドのように扱い、その後の文が前の「この恐ろしい病」と何の関係もないように訳したことは、最も根の深い間違いだと思う。これがなければ「見守る」の間違いもなかった。

新倉真由美は間に改行を入れ、病の説明文を別の文どころか別の段落にしてしまった。著者による段落分けがいたるところで無視されている『ヌレエフ』ですら、一つの文の途中で段落を分けるという、これほどまでに原文の構成を無視した段落分けは見たことがない。

「数回」で表せる旅の多さ

プティはヌレエフの旅を"plusieurs fois par an"(年に数回)と呼んでいる。しかし『ヌレエフ』を読む限り、ヌレエフの旅行回数は明らかにそんなものではない。恐らくそのせいで、新倉真由美は「何回となく」という、数回より多く見える言い方をしている。

「数回」の謎を解く鍵は、ここで書かれたヌレエフの旅行が"Voyager autour de la terre"(地球の周りを旅する)であること。単なる地球上の旅ではない、地球一周のことなのだ。

新倉真由美の文の不自然な点

ゴーリンスキーが地名扱い

ゴーリンスキーはヌレエフのビジネス面を支えた重要な人物。その名は他のヌレエフの伝記である『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)や『Nureyev: The Life』(Julie Kavanagh著)にもある。そのゴーリンスキーがヌレエフ本である『密なる時』で亡命地扱いされたことで、訳文への疑念が一気に膨れ上がったことは、記事「『ヌレエフとの密なる時』の原文比較」に書いた。

治療から遠ざけようとする周囲

初めて読んだときは「ゴーリンスキーからの亡命」に気を取られて気づかなかったが、「周囲の人間は彼を治療から遠ざけようと努めていなければならなかった」にもびっくりした。治療のつらさに逃げ出す患者を周囲の人間が無理にでも治療に連れて行くなら分かるが、治療から遠ざける!?周囲の人間はヌレエフを死なせたいのか?それとも医者を藪医者と思っていたのか?ヌレエフの伝記で書かれていた主治医ミシェル・カヌシは、そうは見えなかったが。

2014/9/17
ゴーリンスキー絡みの説明を書き直し
2014/9/22
「治療から遠ざかる」絡みの説明を書き直し
2014/9/23
旅の回数絡みの説明を書き直し
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