マリア・カラスとの比喩はヌレエフの弁明

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』P.245:
完璧でないという点ではよくマリア・カラスと比較される。彼女はよく間違えて歌うことがあったが、ドラマチックな役への集中度によって人びとの関心を集めた。
Telperion訳:
自分の不完全さを自覚して、彼は自分をマリア・カラスにたとえた。カラスは時折調子はずれに歌ったが、劇的な演技の強烈さで聴衆の注意をいやでも引きつけた。
原本『Noureev』:
Conscient de ses imperfections, il se compare à Maria Callas, qui chantait faux parfois mais qui forçait l'attention du public par l'intensité de son jeu dramatique.

技量が最盛期を過ぎながらもヌレエフが現役続行にこだわるさまについて。

たとえたのは一般人でなくヌレエフ

"il se compare à Maria Callas"には2つの解釈が考えられる。

  1. 彼は自分をマリア・カラスにたとえる(比較する)
  2. 彼はマリア・カラスにたとえられる(比較される)

この場合は、以下の2点の理由から、1番目の解釈が妥当。つまりヌレエフをカラスにたとえているのは、世間一般ではなくヌレエフ自身。

  1. 分詞構文「不完全さを自覚して」の存在
    分詞構文"Conscient de ses imperfections"(彼の不完全さを自覚して)の主語は、主文の主語であるヌレエフ。付随する分詞構文でヌレエフの考えを書いているのだから、主文もまたヌレエフの考えだと見るのが自然であり、「ヌレエフは不完全さを自覚して、マリア・カラスにたとえられた」ではちぐはぐに見える。新倉真由美は「自覚して」を無視することでこのちぐはぐさを解消しているが、それよりは原文の一部を無視しなければ成り立たない解釈を疑うべき。
  2. 引用文の文脈
    この引用文は、周囲から引退をほのめかされ始めたヌレエフが反論するさまがいろいろ書かれた後に来る。だからこれもヌレエフの反論ととらえるのが自然。「カラスだって間違えるが聴衆の心をとらえたではないか、私だってまだまだ観客を感動させられる」という主張なのだ。実際、この少し前でヌレエフは「若いダンサーは私よりテクニックが上でも深みがない」と言っている(訳本P.244)。

原著者メイエ=スタブレ(Meyer-Stabley)は第13章でヌレエフの踊りがいかなるものかをかなり頑張って書いている。本気でヌレエフとカラスの比較をするつもりなら、そちらに書いたのではないだろうか。

マリア・カラスの歌いぶり

  • intensitéは「集中」でなく「強烈さ、激しさ」など。
  • jeuは「ゲーム、競技、演奏」などさまざまな意味があるが、ここで合いそうなのは「演技」だろう。行為を指す言葉なので、「役」ではない。

intensitéを「集中度」と呼べない以上、intensité(強烈さ)とjeu(演技)をつなぐ前置詞deは、一番よくある「~の」という意味でよいと思う。

更新履歴

2016/5/8
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