伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

運命をゆさぶったのはヌレエフの所業ではない

『ヌレエフ』P.59:
しかし一九五八年夏、この悪しき天才は輝かしい運命のカードを急いでかき回してしまった。八月キーロフのバレエ団は分散してしまったのだ。
Meyer-Stabley原本:
Mais en cet été 1958 un mauvais génie s'empresse de brouiller les cartes de ce destin trop brillant. Au mois d'août, la troupe du Kirov se disperse.
Telperion訳:
しかしこの1958年夏、あまりにも輝かしいこの運命のカードを魔物が急いでかき混ぜた。8月、キーロフの一座は散り散りになった。

ワガノワ卒業後にいきなりキーロフ・バレエのソリストになるという異例の抜擢をされたヌレエフが、危うく地方のウーファ・バレエに送られそうになる事件の前置き。

悪しき天才ではなく悪い精

"mauvais génie"をヌレエフだと見なして「悪しき天才」と訳すのは無理もない。実のところ、私自身も長らくそう思っていた。génieの意味として最初に挙げられるのは「天才」。それにMeyer-Stableyはヌレエフについて"mauvais caractère"(新倉真由美の定訳は「悪しき性格」)という表現をよく使うのだから。

しかし、よく見ると"mauvais génie"には不定冠詞unが付いている。もしヌレエフのことなら、特定された人物なのだから、定冠詞leを付けるはず。"mauvais génie"がヌレエフのことでないなら、「悪しき天才」という訳も見直す必要がある。

あらためて仏和辞書でgénieを引いたところ、génieには「妖精、守護神」などという意味もある。しかも"mauvais génie"が「悪さをする悪魔」という意味で載っていた(ちなみに反対語の"bon génie"は、直訳が「良い妖精」、転じて「守り神」)。

魔物の比喩が表すのは異動の衝撃

この文の後を読み進めると、ヌレエフがキーロフ・バレエから地元の小規模なウーファ・バレエに異動するよう命じられたことが分かる。ヌレエフがバシキール共和国から奨学金をもらっていたせいだとはいえ、この配置換えはヌレエフのあずかり知らぬところで決まったこと。急転直下な展開を魔物のしわざと言いたくもなるだろう。

ヌレエフはキーロフ・バレエを分散させていない

一方、新倉真由美の訳を読むと、ヌレエフが運命のカードをかき混ぜたのと、キーロフ・バレエが分散したことは密接に関係しているように見える。実際、「運命のカードをかき混ぜた」のすぐ後に「バレエ団が分散した」と続くのだから、そういう印象を持つもの無理はない。

しかし、実際にはキーロフ・バレエは解散も活動休止もなく存続している。それに8月に活動が停止するのは、欧米の芸術活動団体には普通にあること。現に、ヌレエフが8月に初めてモスクワを訪れたとき、劇場やコンサートホールは閉まっていた(新倉本P.37)。「三日月クラシック」の記事でも書いたが、やはりバレエ団の分散とは、ヌレエフがクリミアに出かけ、恐らく他のダンサーも思い思いの場所に休暇を過ごしに出かけたことを指すのだろう。

更新履歴

2016/6/17
「八月キーロフのバレエ団は分散してしまったのだ」を対訳に含める

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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