伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2012.08.06
逃れたという事実が思い込みのような扱い
2012.06.11
ミック・ジャガーの想像は赤面するほどのものではない
2012.06.05
ジェラルド・リヴェラの夢想が実体験のような扱い
2012.06.04
第三者の感想がミック・ジャガー本人の告白に化ける

逃れたという事実が思い込みのような扱い

『ヌレエフ』P.181-182:
「僕はこの奇妙なサンドイッチ状態から解放され、悪ふざけから逃れたと思っていました」
しかし彼らは真剣に彼を誘惑していたのだ。
Meyer-Stabley原本:
Rivera se souvient qu'il « s'est dégagé comme il a pu de cette bizarre prise en sandwich et s'en est tiré par une blague ». Mais il demeure convaincu que, plaisanterie mise à part, ils ont sérieusement tenté de le séduire.
Telperion訳:
リヴェラは「この奇妙な挟み撃ちからできる限り逃れ、冗談で切り抜けた」と思い起こす。しかし彼は、冗談は別にして、2人が本気で誘惑しようとしたと今も信じている。

アメリカの芸能人ジェラルド・リヴェラが語る、ヌレエフとミック・ジャガーに誘うそぶりをされたときのこと。出典はジャガーの暴露本『Jagger Unauthorized』(Christopher Andersen著)で、邦訳本『ミック・ジャガーの真実』(小沢瑞穂訳)も出ている。

リヴェラにとっての事実は逃れたこと

リヴェラが自分の話をどのように語ったかは、2つの述語で表されている。それぞれの述語、その述語の対象となる内容を並べるとこうなる。

覚えている(se souvient)
  • 逃れた(s'est dégagé)
  • 窮地を切り抜けた(s'en est tiré)
確信したままでいる(demeure convaincu)
  • 2人が本気で誘惑しようとした(ils ont sérieusement tenté de le séduire)

このことから次の事が分かる。

  • 逃れたのはリヴェラにとって事実
  • 誘惑されかけたのはリヴェラにとって自説

実際にあったことに疑問の余地がないからこその「覚えている」。いくら自信があっても、明白な事実でなく自分の考えだからこその「確信した」なのだ。

新倉真由美にとっての事実は誘惑されたこと

一方、新倉真由美は「逃れた」と「彼を誘惑しようとした」をどう扱ったか。

  • "demeure convaincu"に当たるらしい「と思っていました」が、「誘惑しようとした」でなく「逃れた」に付いた
  • 「誘惑しようとした」が「誘惑していた」になった

これではまるで、リヴェラが2人に誘惑されたのは明白な事実で、逃れたと思ったのはリヴェラのはかない勘違いのように見える。

しかも事態を悪化させているのが、リヴェラが続いて語る仮定上の同性愛体験が実体験のように訳されたこと。おかげでリヴェラが性犯罪の被害者に見える。

更新履歴

2014/1/24
箇条書きや小見出しの導入を中心に書き換え

ミック・ジャガーの想像は赤面するほどのものではない

『ヌレエフ』P.179-180:
彼はその力強さと気品をほめそやし、ロシアの偉大なダンサーのタイツの中を想像したと認めざるを得なかった。
Meyer-Stabley原本:
Il ne cesse plus de faire l'éloge de sa puissance et de sa grâce et reconnaît qu'il s'imagine souvent dans les chaussons du grand danseur russe.
Telperion訳:
彼はもうその力強さと優雅さを賛美するのをやめず、ロシアの偉大なダンサーのシューズを履いた自分を想像することが何度もあると認める。

ヌレエフの公演に感激したミック・ジャガーの様子。出典は原本の参考文献一覧にある『Jagger Unauthorized』(Christopher Andersen著)で、邦訳本『ミック・ジャガーの真実』(小沢瑞穂訳)もある。

想像したのは自分自身の姿

ジャガーがした"s'imaginer ~"は「~である自分を想像する」。「~」は状態を表す語句で、この場合は"dans les chaussons du grand danseur russe"(ロシアの偉大なダンサーのシューズの中に)。

新倉真由美の「タイツの中を想像した」という訳の原因は次の2点。

  1. 代名動詞s'imaginerを普通の他動詞imaginer(~を想像する)と読み違える
  2. "dans les chaussons"を「タイツ(本当はシューズ)の中」という名詞句として扱い、imaginerの目的語にしている

しかし、他動詞の目的語が前置詞(この場合はdans)で始まることは決してない。それに、s'が付くか付かないかで動詞の意味が変わることはよくあるので、s'をないがしろにはできない。

どういう自分を想像したのか

「シューズの中にいる」が文字通り中にいるのか、それともシューズを履いた状態のことなのかは、私には決めかねている。上では後者にしたが、前者の可能性も捨てられない。『ミック・ジャガーの真実』は前者にしていたと記憶している。

chaussons(シューズ)とcollants(タイツ)の見間違い

新倉真由美は他でも"La guerre en chaussons"を「タイツを履いた戦争」(P.260)としている。そちらは単にバレエ界の大物同志の争いを指す比喩なので、タイツでもシューズでも大した影響はない。しかしこの文でシューズをタイツに変えられると、とてもエロチックな印象になる。

更新履歴

2014/1/21
文法説明の簡略化を中心に大幅に書き換え

ジェラルド・リヴェラの夢想が実体験のような扱い

『ヌレエフ』P.182:
「もし私がホモセクシュアルな関係を持ったとしたら、それはその夜拒んだのにも拘らず、ルドルフ・ヌレエフとミック・ジャガーと行われたことでした」
Meyer-Stabley原本:
« Si j'avais dû faire une expérience homosexuelle, admet-il toutefois, malgré son refus, ce serait arrivé ce soir-là, avec Rudolf Noureev et Mick Jagger. »
Telperion訳:
しかし彼は拒否したにもかかわらず認める。「もし私がホモセクシャルな体験をしなければならなかったのなら、それはこの夜ルドルフ・ヌレエフとミック・ジャガーとの間で行われただろう」

アメリカの芸能人ジェラルド・リヴェラによる、ヌレエフとミック・ジャガーに誘うそぶりをされたが逃げ出したという回顧。出典は原本の参考文献一覧にあるジャガーの暴露本『Jagger Unauthorized』(Christopher Andersen著)で、邦訳本『ミック・ジャガーの真実』(小沢瑞穂訳)にもある。

実際にあったことではない

リヴェラが語ったのは過去の事実に反する仮定、つまり実際には行われなかったことだというのは、次の2点から分かる。

  1. 従属節"Si j'avais dû faire une expérience homosexuelle"(もし私がホモセクシャルな体験をしなければならなかったのなら)の述語"avais dû"の時制が直説法大過去
  2. 主文"ce serait arrivé ce soir-là"(それはこの夜行われただろう)の述語"serait arrivé"の時制が条件法過去

「拒んだにもかかわらず」に続くのは「行われた」でなく「認める」

"malgré son refus"(彼の拒否にもかかわらず)は直前の説明文"admet-il toutefois,"(しかし彼は認める)に関するものであり、リヴェラの談話ではない。もしリヴェラが語ったなら、"malgré mon refus"(私の拒否にもかかわらず)となるはず。

リヴェラの真意と新倉真由美訳の印象

つまりリヴェラは、「あのとき拒否したからホモセクシャルな体験はしたことがないけれど、どうしてもしなければいけないならあの晩やったろう」と言っている。

しかし新倉真由美の「拒んだにも拘らず行われたことでした」は、嫌がるリヴェラにヌレエフとジャガーが行為を強要したような言い方。この言い方に引きずられて、「もし私がホモセクシュアルな関係を持ったとしたら」は実際にはなかったことの仮定でなく、そのような関係を持ったことを認めたくないゆえの表現に見える。

更新履歴

2014/1/21
小見出しや箇条書きの導入を始めいろいろ追記

第三者の感想がミック・ジャガー本人の告白に化ける

『ヌレエフ』P.180:
「それは魅惑的な瞬間だったよ。まるでカチンとスイッチが入ったみたいだった」
Meyer-Stabley原本:
Lors d'une de leurs sorties culturelles, Mick Jagger et Marianne se rendent dans les coulisses pour le rencontre. « Ce fut un instant fascinant, se rappelle un témoin, un déclic instantané s'est produit entre Noureev et Jagger. J'étais ennuyé pour Marianne, qui paraissait un peu à l'écart. »
Telperion訳:
ミック・ジャガーとマリアンヌは文化的な外出の1つで、舞台裏までヌレエフに会いに行った。目撃者は回想する。「うっとりする瞬間だった。ヌレエフとジャガーの間で瞬時に何かが作動したんだ。マリアンヌのために心配になったよ。少しばかり蚊帳の外に見えたからね」

ヌレエフの舞台にミック・ジャガーが感激した後のこと。出典は原本の参考文献一覧にあるジャガーの暴露本『Jagger Unauthorised』(Christopher Andersen著)で、邦訳本『ミック・ジャガーの真実』(小沢瑞穂訳)にも載っている。

次の理由から、引用された発言は新倉真由美の訳ではジャガーのものにしか読めない。

  1. 発言の説明である「目撃者は回想する」(se rappelle un témoin)が省かれた。
  2. 発言からジャガーやマリアンヌ・フェイスフルの名が消えた。このため、発言者がジャガーではありえないということが分からない。
  3. 発言の直前にジャガーがヌレエフを絶賛したさまが書いてある

不注意だけでここまでできるとは私には信じられない。匿名の誰かの感想が、本人の確かな告白にすり替わる。仮にマスコミや検察の人間がしたなら、職業生命を絶たれてもおかしくない。

なお、訳本では「舞台裏まで会いに行った」がないため、この「瞬間」が指しているのが、その前に舞台上のヌレエフをジャガーが初めて見たときを指しているとしか読めない。上の発言者書き換えに比べればささいなことだが。

更新履歴

2014/1/21
出典や感想などの大幅な追記
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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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