伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

友人たちはヌレエフを亡き後も忘れない

『密なる時』P.99:
今もなお、ヌレエフを失ってしまったやもめたちがパリの通りを走り抜け交差し、出会いまた忘れ去っていく。
プティ原本:
Aujourd'hui les veuves Noureev courent les rues de Paris, se croisent, se rencontrent et s'oublient.
Telperion訳:
今日、ヌレエフのやもめたちはパリの通りを走り、すれ違い、出会い、自分を忘れる。

ヌレエフ亡き後の喪失感を抱えた人々の描写の冒頭。この後でプティは具体的な名を次々に挙げ、その人々の生活にヌレエフが今も根を下ろしている様子を書く。

新倉真由美が「忘れ去っていく」と訳した動詞は、代名動詞s'oublier。単なる「忘れる」という意味の他動詞oublierと違い、次のような意味になる。

忘れ去られる
主語である物事が、人びとの記憶から消えること。
自分を忘れる
主語は人。「自制心を失う」「私欲を捨てる」などの意味が派生する。

この場合は明らかに2番目の意味。

  1. 引用した文の後には、その人々がヌレエフを思い出す様子が詳しく書かれている。その人たち自身が他人に覚えられているかどうかという話が入り込む余地はない。
  2. 人々の動作としてs'oublientとともに並べられたのは、courent(走る)、"se croisent"(すれ違う)、"se rencontrent"(出会う)。どれも能動的な動作なので、そこに受動的な「忘れ去られる」が加わるのは場違い。

「自分を忘れる」とは具体的にどういうことかは、想像するしかない。印象的な知人が亡くなった後で同じ喪失感を持つ人に会った時の感情という文脈を踏まえると、自分の現在の日常を忘れ、物思いに沈むというイメージを私は抱く。

新倉真由美の文を読むと、人々が忘れるのはヌレエフか、会ったばかりのヌレエフを介した知人に見える。「今では共通の知人に会った時に思い出すだけで、それもすぐに忘れる」と言っているに等しい。この後で書かれる人々の追憶とあまりにミスマッチ。人々の名の中には、プティ自身の名もあるのに。

更新履歴

2014/9/24
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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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