伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2013.07.31
ヌレエフの家とフィリッポの家の位置関係
2013.07.29
思いやりあふれるのはジジでなくヌレエフ
2013.07.23
新倉本が招くヌレエフの誤解 - 一覧
2013.07.18
「バレリーナへの道」の新倉真由美コラム - 人間ヌレエフ論
2013.07.12
「ヴァレンティノ」におけるヌレエフのユーモア

ヌレエフの家とフィリッポの家の位置関係

『ヌレエフ』P.205:
一九八〇年代以降ルドルフは、この島の一方に邸宅を持ち、もう一方には劇作家エドワルド・ド・フィリッポのヴィラが建てられていた。
Meyer-Stabley原本:
À partir des années 1980, Rudolf possédera une maison sur cette île, l'un des deux rochers du golfe de Naples qui font face à Positano (sur l'autre se dresse la villa du dramaturge Eduardo De Filippo).
Telperion訳:
1980年代から、ルドルフはこの島に家を持つことになる。島はポジターノに面したナポリ湾の2つの岩礁の1つである(もう1つには劇作家エドゥアルド・デ・フィリッポの別荘がそびえていた)。

リ・ガリ諸島の家について。ヌレエフがリ・ガリのどの区域を買ったかは調べにくいし、綿密に調べるべき重要事項でもないとは思う。しかし、記事「訳本が招くヌレエフの誤解(9) - 異様な趣味」で、ヌレエフは家が建つ島全体を買ったとMeyer-Stableyが示唆している可能性に触れたため、その仮説に反する訳本の記述も取り上げておきたい。

岩礁の意味

家が建つ場所である"cette île"(この島)の後に、"l'un des deux rochers du golfe de Naples"(ナポリ湾の2つの岩礁の1つ)が続く。1つめの名詞句の後にそれを説明する別の名詞句を並べるのはよくある用法。記事「ゴーリンスキーはヌレエフの亡命地でなくエージェント」や記事「訳本が招くヌレエフの誤解(7) - 批判の的」の第1項といった例がある。だからここでの「2つの岩礁の1つ」は、前に書かれた「この島」の言い換えだと見なすのが自然と思う。つまり、岩礁とは島全体のことであり、島の一部分ではない。新倉真由美は岩礁を島の一部分だと解釈しているが、この原文での「岩礁」に「この島の」という形容が明記されていないことは指摘しておく。

ヌレエフの家とフィリッポの家の距離

劇作家フィリッポのヴィラが建つ場所であるl'autre(もう1つ)とは、言うまでもなく2つの岩礁のもう1つ。ヌレエフの岩礁が1つの島なら、フィリッポの岩礁は別の島ということになる。実際、上陸する人間がほとんどいなさそうな小島を2人で分け合うよりは、別々の島に住むほうが、俗世間から離れて羽を伸ばすのにはちょうどいいのではなかろうか。

2人の所有するのが確かに別な島だという信頼に足る出典は見つけられていないので、この記事は保留中カテゴリに入れた。ただし、英語ウィキペディアのリ・ガリの項で、ヌレエフの島はGallo Lungoとされている一方、フィリッポの島はIscaとされている。

新倉真由美が省いた部分

"du golfe de Naples qui font face à Positano"(ポジターノに面する、ナポリ湾の)は、deux rochers(2つの岩礁)を形容する部分。「ポジターノに面する」という関係詞の述語fontは三人称複数の活用形なので、直前のNaples(ナポリ)やgolfe(湾)でなく、さらに前の複数形であるrochersを指すことが分かる。もっとも、ナポリ湾にあってポジターノに面するという位置が存在しうるのか、私は疑問に思う。

思いやりあふれるのはジジでなくヌレエフ

『密なる時』P.36:
情熱的なジジはこのスーパースターとの共演を非常に享受し、彼に合ったゆったりした雰囲気づくりに成功し、それはこの思いやりあふれるダンサーの魅力を余すところなく際立たせた。普通ヌレエフはパートナーとして組むことを決める前には厳しいテストを行うのだが、
プティ原本:
Zizi passionée s'amusait beaucoup avec le monstre, elle avait réussi à créer sur le plateau un climat détendu propre à faire ressortir le charme attentionné du danseur qui en général mettait ses partenaires durement à l'épreuve avant de se décider à les accompagner;
Telperion訳:
熱狂したジジは怪物とともに大いに楽しみ、彼の思いやりある魅力を引き立たせるのにぴったりのリラックスした雰囲気を、首尾よく舞台の上に醸し出した。彼は相手になろうと決める前にパートナーを厳しく試すのが普通だが、

ヌレエフとジジ・ジャンメールが「若者と死」の収録に向けて稽古中のとき。

ダンサーという言葉のあいまいさ

訳の間違いではないが、あいまいさは気になるので書いておく。

新倉本を読むと、思いやりあふれるダンサーがジジのことかヌレエフのことか、迷いが残る。原文では「ダンサーの思いやりある魅力」(le charme attentionné du danseur)でdanseuse(女性ダンサー)でなくdanseur(男性ダンサー)が使われているので、ヌレエフのことだと分かる。「男性ダンサー」は訳文に入れるにはいささかくどいので、私の訳では単に「彼」にしてみた。

新倉本では、danseurを修飾する関係節(quiから文末まで)の意味「パートナーと組むことを決める前に厳しく試す」がヌレエフのこととして訳されている。新倉真由美自身は、思いやりあふれるダンサーが誰のことか、正しく把握しているのだろう。

ヌレエフをmonstreと呼ぶ真意

これまた新倉訳が不適切なわけではないが、短い記事なのでついでに書き留めておく。

プティはこの本でヌレエフをよくmonstre(怪物)または"monstre sacré"(聖なる怪物)と呼ぶ。新倉真由美は『密なる時』ではこれらを「スーパースター」と訳すことが多い。フランス語で"monstre sacré"が規格外れの大スターという意味なのを踏まえてのことだと思う。

しかしプログレッシブ仏和辞典やラルース仏語辞典を読む限り、monstre(怪物)は人を指すときには非難として使うらしい。プティがヌレエフをmonstreと呼ぶとき、"monstre sacré"の短縮形として畏敬の意を込めているのか、それとも苦々しさを込めているのか。プティはヌレエフに対してどちらの気持ちも持っているから、第三者がどちらか断言するのは不可能だろうが、気にはなる。「怪物とともに楽しみ」には、「あの扱いにくいルドルフと仲良くなるとは」という意味がこもっているのかも知れない。

更新履歴

2014/9/24
散漫な書き方だったので推敲

新倉本が招くヌレエフの誤解 - 一覧

「新倉真由美の訳本『ヌレエフ』でのヌレエフの描かれ方がろくでもない」リストがいつまでも12の記事に分散したままでは読みにくいので、記事一覧をまとめます。

このブログの記事

新倉本『ヌレエフ』における原本『Noureev』から逸脱したヌレエフ描写を傾向ごとに分類し、傾向ごとに感想記事とこのブログにある具体例の記事一覧を付けました。一部の傾向に感想記事しかないのは、その傾向に属する個所すべてが、別なブログ「三日月クラシック」にあるものだからです。感想記事にはこのブログと「三日月クラシック」両方のブログ由来の個所を載せています。

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「バレリーナへの道」の新倉真由美コラム - 人間ヌレエフ論

「微熱が続くし、だるくて頭が働かない、風邪らしい」と思って1週間。あまりに治らないので診察を受けたら溶連菌感染症と判明し、ちゃんとした薬を飲んで治し、それまでにたまりまくった仕事を片付けるのに追われて1週間。最初にすぐ診察を受けていたらこんなに時間をロスしなかったのですが、症状がしつこいとはいえ激しくはなかったので、ついつい過小評価しました。

ところで、文園社刊「バレリーナへの道」94号にヌレエフ特集が載ったと知り、少し前にのぞいてみました。ヌレエフを直接見た人たちの声をあれこれ集めてきたのには感心しました。ヌレエフの年表も、さすがAriane Dollfus著の伝記を参考資料にしているだけあり、『ヌレエフ』の年表より詳細です。文園社の雑誌なので、一応『ヌレエフ』も参考資料のひとつとされていますが。

しかし、こんなブログを書いている私としては、一番気になったのは文責・新倉真由美の「ルドルフ・ヌレエフの生涯」。特集のカラーがヌレエフの職業上の業績を主にしているので、新倉真由美の文もそれに倣っています。それでもヌレエフの性格については書きたかったらしいですね。

神に選ばれた者の宿命か、表面的な華やかさとは裏腹に、心は枯渇し生涯孤高の人であった。
自信に満ちた態度は時に傲慢と批判され敵も作ったが、バレエと言う崇高な芸術の前では常に謙虚で真摯であり、決して満足することなくより高い理想を追い求め続けた。

これを読んで、新倉真由美が『ヌレエフ』の訳者あとがきに書いた「人間ルドルフ・ヌレエフ像」を思い出しました。

天才の名をほしいままにした彼の行動は時に常軌を逸し、過激であったり自己中心的であったりもします。多くの敵を作ったのも事実でしょう。しかし怒り心頭に達し一度は袂を分かった人でさえ、彼を憎みきることはできず、実際世を去った時の喪失感の大きさや寂寞たる思いは想像を超えるものだったように感じます。それは人間味に溢れ、愚直なほど一途に自分の人生を生き抜いた彼の魅力のなせる業ではないでしょうか。

両者に共通するのは、まず「人間的には欠点が多く、たくさん敵を作った」と始めていること。その後、「バレエの前で謙虚」とか「人間味に溢れ」とか言ってフォローしている格好です。「心は枯渇し」は私にはヌレエフにおよそ似合わない表現に思え、新倉真由美の意図を計りかねますが、少なくともほめ言葉には見えません。

普通は、「確かに短所はあるが、長所もある」といえば、短所を認めつつも長所の存在を訴えたいときに使う言い回しです。しかし、『Noureev』で書かれたヌレエフの性格の欠点を、新倉真由美はとても水増ししています。新倉真由美はヌレエフのダンサーとしての力量も原著者Meyer-Stableyより過大に書いていますが、それがかすむくらいの勢いでしたね。なにせ「性格の悪さは彼を最も有名にした要素だろう」なんて書くくらいですから。他にも、新倉真由美の脳内にいるヌレエフはとてつもなく傍若無人なトラブルメーカーなんだろう、だからこんな何でもない文がねじまげられたんだろうと思わせる個所がいくつも。それらを思い出すと、「謙虚で真摯」とか「一途に自分の人生を生き抜いた」とかいうフォローが白々しく思えます。

「ヴァレンティノ」におけるヌレエフのユーモア

『ヌレエフ』P.240:
極上のユーモア、露骨なときもあったが、時おり呟くように言っていた微妙な冗談。ケン・ラッセルも気づかなかったかもしれないが、非常に刺激的だった。
Meyer-Stabley原本:
Un humour supérieur : parfois évident, en situation, parfois si subtil qu'il pourrait bien avoir échappé à Ken Russell et à ses intentions - ce qui aiguise notre plaisir.
Telperion訳:
高度なユーモアだ。時には明白で場面に即しており、時にはあまりに繊細なため、ケン・ラッセルとその意図からうまく逃れたのかもしれない。このことに我々は嬉しくなる。

舞踏批評家シルヴィ・ド・ニュサックによる映画「ヴァレンティノ」のヌレエフ評より。新倉真由美は原文の"si subtil"(あまりにも繊細な)を「呟くように言っていた微妙な」としたようです。つまり、ヌレエフ演じるヴァレンティノが小声で「布団がふっとんだ」とか何とかジョークを言っており、監督ケン・ラッセルはそれに気づかなかったらしいと。しかし、視聴者に内容が聞こえる程度には大きな声で主演男優が喋っているのに気づかない監督って、あまりに注意力散漫すぎて私にはどうも信じられません。そもそも、原文にあるhumourが小噺とは限りません。ヌレエフのちょっとした仕草や表情がユーモラスだが、それはラッセルの指図ではないというほうが、ありそうに思えます。

本当は映画「ヴァレンティノ」を自分で見て確かめれば、ミスだと断定する記事として書けたかもしれません。しかし残念ながらそこまでする根性はないので、単に「訳本の内容には納得がいかない」ととどめるのみにします。

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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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