伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2013.05.31
感じが悪くなったポントワによるヌレエフ評
2013.05.29
今残っている問題点
2013.05.27
尽きることがない悲しみの勝手な創作
2013.05.25
原本『Noureev』の固有名詞ミス
2013.05.23
ヌレエフは席から踊りを見ていた

感じが悪くなったポントワによるヌレエフ評

『ヌレエフ』P.211:
ルドルフはほとんど私生活もなく腹心の友も持たずひとりぼっちでした」
Meyer-Stabley原本:
Rudolf était un solitaire sans attaches, presque sans vie privée. »
Telperion訳:
ルドルフは孤独な人で、縁故もなく、私生活もほとんどありませんでした」

ノエラ・ポントワによるヌレエフ評の一部。

ヌレエフにないのは腹心の友でなく縁故

attacheは「つなぐもの」というのが基本的な意味で、人間関係を指す場合は「縁故、コネ」。「腹心の友」というほど緊密な関係ではないらしい。ラルース仏語辞典で人間関係を指すattacheはこう説明されている。

Liaison, relation qui fait dépendre quelqu'un d'une autre personne ou d'un milieu (surtout pluriel) : Avoir des attaches avec la police.

ある人を別の人や環境に依存させるつながり、関係(とりわけ複数形): 警察とのコネがある。(Telperion訳)

実際、ポントワがヌレエフを「縁故がない」と評するのは、中立的な論評だと思う。ヌレエフはキーロフから1人西側に飛び出し、ロイヤル・バレエでも正規の団員にはならず、あちこちのバレエ団と仕事をしていたのだから。ところが、新倉真由美の「腹心の友も持たず」という言葉には、友情をはぐくめないヌレエフへの非難がこもっているように見える。

ポントワが親ヌレエフとされることと辛辣な新倉訳の矛盾

Meyer-Stableyは「フランスの女性ダンサーたちはヌレエフの最上の広告代理業者となる」と書き、その前後にギレーヌ・テスマーやジャクリーヌ・ライエによる賛辞を並べ、次にポントワの言葉を載せている。「広告代理業者になる」というのはヌレエフを売り込むことだろうし、テスマーやライエの発言は実際にそうなっている。それと並ぶポントワの発言も、ヌレエフに好意的だと予想してよい。

同じフランスのダンサーでも、ウィルフリード・ピオレはヌレエフを「他の誰よりも何度も世界最高のダンサーの地位にいた」と認めつつ、「同レベルのダンサーならオペラ座にもいる」と冷めてもいる(「三日月クラシック」の原文比較2より「P.210 彼に最も忠実だったのは~」の項を参照)。そのピオレをMeyer-Stableyは広告代理業者の例から外した。

もしポントワの言い方が新倉真由美の言うように批判的なら、Meyer-Stableyはテスマーやライエでなく、ピオレとともにポントワを並べたのではないだろうか。広告代理業者云々の原文を読んでからというもの、新倉訳のポントワ発言のとげがずっと気になっていた。

非難めいた言い方はもう一つある

ポントワの発言を訳本で読むと、ヌレエフを非難しているような言い方がもう一つある。

訳本
でも著名人を気取ってもいました。
原本
Mais il jouait aussi un personnage.

「腹心の友」と訳すのは原文どおりとは言えないattachesと違い、"jouer un personnage"を「著名人を気取る」と訳すのは単語の意味的に可能に見えるので、間違いだとは言わない。

ただ、仏和辞書を読む限り、「~を気取る」という表現には前置詞àを使う"jouer à ~"のほうがよく使われるらしい。ポントワの談話では前置詞が使われておらず、その場合の(つまり自動詞または間接他動詞でなく単なる他動詞である)jouerには単なる「~を演じる、~の役を担う」という意味もある。最初に書いたMeyer-Stablbeyによる引用の文脈を考えると、私なら非難めいた訳は避けておく。

2013/6/2
実はテスマーによる賛辞は問題の引用文の直前にあるので、「~と書いてから、テスマーやライエによる賛辞を並べ」を「~と書き、その前後にテスマーやライエによる賛辞を並べ」に修正。
2016/5/11
小見出し変更

今残っている問題点

原本『Noureev』を手にした2011年6月下旬は、目を通す日は何かしら『ヌレエフ』の翻訳ミスが見つかったものでした。2012年6月にこのブログを開設した後も、取り上げたい個所をたくさん見つけています。しかし原本を買って2年になろうという今、記事にしやすく、積極的に記事にしたい個所はあらかた記事にしたようです。今残っている問題のうち、次の2種類の比率が最近はだいぶ高くなりました。

1. 翻訳ミスと断定しきれない
ここに分類される理由は「原文が難しく、構文解析が私には無理」と「新倉真由美の訳が原文からかけ離れているわけではなく、簡単には退けられない」の2つに分かれます。確定させて指摘記事にするのが理想とはいえ、いかんせん私は力不足です。
2. 明らかだが小さな翻訳ミス
この程度の間違いしか『ヌレエフ』や『密なる時』になかったなら平和だったのに、という印象のもの。一例を挙げます。
  • 『ヌレエフ』P.32の「賢者」は、原本のsauveur(救い主)をsage(賢人)だかsavoir(知る)だかと混同している。
  • 『ヌレエフ』P.221にある「スーツケースを占領していたマッサージ器具(少し書き換えている)」に相当する原文は"sa table de massage, (中略)qui se replie comme une valise"(スーツケースのように折り畳めるマッサージ台)。

私がブログを立ち上げたのは、ヌレエフのイメージを傷つけ、読者を混乱させる訳文が『ヌレエフ』に多すぎるからです。悪影響の少ないミスや解釈が確定できない個所も多く取り上げたせいで、「ブログ主が言うほどひどい翻訳ではない」という印象が生まれてしまっては不本意です。だから、確定できない個所はもちろん、小さなミスをすべて記事にするのは控えたほうがよさそうです。書籍の翻訳でノーミスというのは、実現困難だろうと思いますし。

ただし、新倉真由美の訳ではつじつまが合わないと確信している個所は、私に妥当な訳を出すのが無理でも、話題にしたいと思っています。「いったい原文はどうなっているんだ」と強く感じたので、原文を見た結果報告という感じでしょうか。

これら2種類の問題に該当せず、これから記事を書きたい個所はまだあります。ただ、「1930年代にハリウッドで戯曲化された『シンデレラ』」とか「マリインスキー劇場が後にワガノワ・アカデミーになった」とかいうほどとんでもない個所は多分もうないし、もともと神経質な私は自覚せずに小さい問題を取り上げそうです。だから「初期の指摘が埋もれたらどうしよう」という心配はやはりあります。

今のところ、対策として考えているのはお奨めリスト作りでしょうか。とりわけひどい個所の選別作業は、頭に血が上ってきそうで怖いのですが。しかし「三日月クラシック」やここで山ほど書いてきたことが多少はストレス発散になっているはずなので、今ならわりと冷静にできるかもという期待はあります。

尽きることがない悲しみの勝手な創作

『密なる時』P.100:
ロンドンではモード・ゴスリングが彼の名を口にしては、ずっと尽きることのない悲しみに付きまとわれていた。
プティ原本:
à Londres Maude Gosling est omniprésente dès que le nom du danseur est prononcé.
Telperion訳:
ロンドンではダンサーの名が発せられたとたんにモード・ゴスリングが至る所に現れる。

モード・ゴスリングはヌレエフの生涯にわたる親しい友人の一人。この文はヌレエフ亡き後の彼女の行動について述べている。

モードは何にも付きまとわれてはいない

"Maude Gosling est omniprésente"は「モード・ゴスリングはあらゆる場所にいる」。omniprésenteには「絶えず付きまとう」という訳語もあるが、この訳語を採用するとしても、モードは付きまとう主体。何かに付きまとわれてはいない。

新倉真由美はomniprésenteを「絶えず付きまとう」でなく「絶えず付きまとわれる」に読み替えたらしい。しかし原文にはモードに付きまとうものの描写が当然ないので、原文にない「ずっと尽きることのない悲しみ」なる概念を創作し、それがモードに付きまとっていることにしている。

ヌレエフの名を口にするのはモードに限らない

普通の人間であるモードが本当にあらゆる場所にいるはずがない。モードが現れるのは、"dès que le nom du danseur est prononcé"(ダンサーの名が発音されたらすぐ)という条件が満たされた時。「ダンサーの名が発音される」は受動態であり、誰がヌレエフの名を発音するのかは明示されていないことに注意してほしい。

ヌレエフが話題になるすべての場所にモードが現れるのも、厳密にはやはり不可能なこと。この文を単なる文法解釈でなく、プティの真意まで含めて解釈するのは難しい。私の推測では、「ダンサーの名が発音される」とは、どこかで大々的にヌレエフが話題になるイベントが開かれることだと思う。『密なる時』原書が出版された1998年当時、そういうイベントはすでに何度も開かれていたはず。そのたびにモードが駆けつけるということなら、実現可能性が高くなる。

更新履歴

2014/9/24
仏文解釈と新倉真由美の解釈の説明を分ける
2017/8/5
小見出しを導入

原本『Noureev』の固有名詞ミス

別記事で「Meyer-Stableyは人名をよく間違える」などと書いた手前、固有名詞のミスが実際には何回くらいなのか確かめたくなった。といっても、『Noureev』に出てくる膨大な人名をいちいちチェックはしていられないので、この記事は常に未完成であり、今後追加することもあるかも知れない。

過去触れたことがなかったミス

訳本ページ訳本原本妥当な英語表記
72ズーブローフスカヤIrina ZoublovskaïaInna Zubkovskaya
161エドワード・ヴィッテラEdward VitellaEdward Villella
263ジークフリード・フォリスZiegfield FolliesZiegfeld Follies

ヌレエフが入団した当時のキーロフのダンサー、インナ・ズブコフスカヤはフランス語表記が確立していそうにないので、正しいスペルとして英語表記を載せた。フランス語ではouを「ウ」と発音するので、Meyer-Stableyが最初の「ズ」をZouと書いているのはおかしくないと思う。しかしbの次がkでなくlなのは変だし、ファースト・ネームは同じ場所で列挙されているイリーナ・コルパコワとごちゃまぜになったらしい。

過去記事や『三日月クラシック』で触れたミス

訳本ページ訳本原本妥当なフランス語表記
57ガヤーネGaeneyGayane
156, 190ナディア・メリナ/メリーナNadia MerinaNadia Nerina
74イオチコ・ローラIochko-RolaIochkar-Ola
236アーヴィン・ウィンクラーIrvin WinklerIrwin Winkler

「三日月クラシック」ではナディア・ネリナについて断言しなかったが、訳本でカットされた部分でMeyer-Stableyが銀行家チャールズ・ゴードンをNadia Merinaの夫と呼んでいるのを後で見つけた。チャールズ・ゴードンの妻は間違いなくネリナ。

この他に、私は以下の名の原本表記も怪しんでいるが、本来キリル文字であるマイナーな人名は断定が難しく、一覧から外した。

感想

並べてみると、フランスでは馴染みが薄そうな名前ばかりで、間違えるのも無理はないかなと思う。ただ、一応バレエの記述が多い本なのに、ヌレエフと活躍した年代が重なるダンサーであるエドワード・ヴィレラやナディア・ネリナ、演目名のガヤネーで間違えていることが、私の「よく間違える本だな」という印象を強くしているのかも知れない。

訳本でのこれらの名の扱い

訳本『ヌレエフ』でこれらの名前のほとんどは、原本にのっとった表記になっている。なぜかズブコフスカヤは姓だけだが、原本があれなので、ファーストネームは省略してよかったと言ってもいいくらい。また、ガヤーネを正しく認識できたのは立派。ただし「ジークフリード・フォリス」は、原本のZiegfield Folliesを見間違っているらしい。ちなみに本来の日本語表記の一例はジーグフェルド・フォリーズ。

ヌレエフは席から踊りを見ていた

『密なる時』P.97:
やがて訪れた人生最後の数週間、彼は踊ることを切望していた創作作品への意欲を抱きながら楽屋で横になっていた。
プティ原本:
Enfin les dernières semaines de sa vie, il allait, allongé dans une loge, assister curieux aux créations qu'il aurait aimé danser.
Telperion訳:
とうとう生涯最後の数週間、彼はボックス席で横になりながら、自分が踊りたかったであろう創作を旺盛な好奇心で見るために出かけていた。

ヌレエフは踊りを見に行った

分かりやすさのためにいくつかの語句を省いた後に残るこの文の根幹は、"il allait assister aux créations"(彼は創作を見物しに出かけた)。

  • "aller ~(動詞の不定詞)は「~しに行く」
  • "assister à ~(物)"は「~を見物する」

原文と新倉文を照らし合わせると、どうやら新倉真由美はassisterを「訪れた」と訳したように見える。assisterの動作主は「彼」(il)であり、人生最後の数週間ではないのだが。

楽屋でなくボックス席にいた

ヌレエフが横になっていた場所であるlogeは、バレエ関連では「楽屋」または「ボックス席」。この文ではヌレエフが創作を見物する場所なのだから、ボックス席が妥当。ダンサーがせいぜい休憩や支度しかしない楽屋では、創作を見物できない。

他ダンサーの公演に無関心な新倉版ヌレエフ

ヌレエフにとって他のダンサーたちが踊るのを見るのが喜びだったことは、引用した文からも分かるし、その前後からもうかがえる。

唯一彼を魅了していたのはダンサーたちであり (新倉真由美訳、引用のひとつ前の段落より)
ダンサーたちを見に行くために一度たりともそこから出ていく体力は残されていなかった (新倉真由美訳、病院から出られなくなった後)

これに対して、ここでの新倉真由美のヌレエフは自分が踊ることしか考えていない。他のダンサーたちの踊りが見えない楽屋で、自分が踊れないのに意欲を燃やしながら横になるという描写は、何とも暗い。

更新履歴

2014/6/22
  • 訪れたのが数週間でなくヌレエフだという説明をほぼ削除
  • 「他ダンサーの公演に無関心な新倉版ヌレエフ」を追加
2016/12/12
新倉真由美の同様の誤訳例を削除
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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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