伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2012.07.31
ロンドンのタイム誌
2012.07.31
サングラスとsingularise
2012.07.30
俳優ブリアリーとパーキンス
2012.07.29
巻き込まれるのはヌレエフでなくヴァレンティノ
2012.07.28
嫉妬深いのはフォンテーンの夫ではない

ロンドンのタイム誌

『ヌレエフ』P.245:
P.245 ロンドンのタイム誌
Meyer-Stabley原本:
Le Times de Londres
Telperion訳:
ロンドンのタイムズ紙

雑誌のTimeはニューヨーク発行。ロンドン発行の「The Times」は新聞。

私は翻訳の問題を第一に取り上げているので、誤植にも見えるこの個所を取り上げるのには迷いがあった。しかし、「タイムでなくタイムズが正しい」「誌でなく紙が正しい」という2つの間違いが連続しているので、翻訳段階での間違いという可能性はかなりあるし、ジャーナリストの著作で報道出版物の名前が間違っているのは外聞が悪いので、取り上げることにした。

サングラスとsingularise

『ヌレエフ』P.195:
ヌレエフはサングラスをかけ、先に店に入った友人たちに値段を尋ねさせた。
Meyer-Stabley原本:
Noureev se singularise en faisant parfois pénétrer avant lui dans la boutique l'un de ses amis pour demander les prix,
Telperion訳:
ヌレエフは時折、値段を聞くために自分より先に友人の1人を店内に行かせるという奇行で目立っていた。

自分が有名人なせいで店主に高値を要求されるのを嫌ったヌレエフの対策。

代名動詞"se singulariser"は「自分を奇抜さで目立たせる」。これが「サングラスをかけ」になったのは、singulariserから英語sunglassを連想したのだろう。ちなみにフランス語でサングラスは"lunettes de soleil"。

ヌレエフより先に店に入ったのは"un de ses amis"(彼の友人の1人)で、店ごとに1人ずつだったのだろう。この引用文の場合は、友人が1人でも5人でも大した違いはないが、次の例では、新倉真由美が単数形と複数形の違いに無頓着だったことが、大きな誤訳につながっている。

俳優ブリアリーとパーキンス

『ヌレエフ』P.179:
ヌレエフはパーキンスのフランスの“仲間たち”と幾晩も過ごしていた。その一人ジャン・クロード・ブリーリーは、
Meyer-Stabley原本:
Noureev passe plusieurs nuits avec la « copie » française de Perkins : Jean-Claude Brialy, qui (以下略)
Telperion訳:
ヌレエフはパーキンスのフランスの「コピー」、すなわちジャン=クロード・ブリアリーと幾晩かを過ごした。彼は(以下略)

copieの主要な意味は「写し、複製」で、「仲間」という意味は見当たらない。また、"la copie"は単数形なので単に1人であり、何人かのうちの1人ではない。

ジャン=クロード・ブリアリーはアンソニー・パーキンスと同じく俳優。ブリアリーは1933年生まれ、パーキンスは1932年生まれという同年代で、1963年に映画「Le Glaive et la Balance」で共演している。映画の写真を見る限り、容姿にも似通ったところが見受けられる。

巻き込まれるのはヌレエフでなくヴァレンティノ

『ヌレエフ』P.234:
しかし二番目の妻だった装飾家のナターシャ・ランボヴァ役の女優は、自分勝手な行動に彼を巻き込んだ。演じていたのはママス&パパスというグループの歌手ミシェル・フィリップスだった。
Meyer-Stabley原本:
Mais la décoratrice Natacha Rambova, la deuxième femme du bourreau des cœurs, qui l'entraînera dans ses folies d'enfant gâtée, est interprétée par Michelle Philips, ex-chanteuse du groupe Mamas et Papas.
Telperion訳:
しかし、レディ・キラーの2番目の妻で、甘やかされた子供の狂気に彼を巻き込む室内装飾家デザイナーのナターシャ・ランボヴァを演じるのは、ママス&パパスというグループの元歌手ミシェル・フィリップスだった。

映画「バレンティノ」の撮影でヌレエフとトラブルになった共演者について。

新倉真由美の文だと、ミシェル・フィリップスが自分勝手な行動にヌレエフを巻き込んだという意味になっている。ところが、関係節"qui l'entraînera dans ses folies d'enfant gâtée"(甘やかされた子供の狂気に彼を巻き込む)が修飾するのは、明確に関係節の前にある「室内装飾家デザイナーのナターシャ・ランボヴァ、レディ・キラーの2番目の妻」(la décoratrice Natacha Rambova, la deuxième femme du bourreau des cœurs)。ミシェル・フィリップスが言及されるのは関係節の後なので、関係節で描写されることはありえない。

ランボヴァに巻き込まれる「彼」とは、ランボヴァに関係する人間なのだから、夫だったルドルフ・ヴァレンティノ。ヌレエフではありえない。

更新履歴

2012/7/31
ランボヴァの職業を修正。調査不足でした。

嫉妬深いのはフォンテーンの夫ではない

『ヌレエフ』P.157:
嫉妬深い夫テイト・アリアスがパナマで傷を負い、半身不随になってしまったのだ。
Meyer-Stabley原本:
Blessé par un mari jaloux à Panamá, Tito Arias se retrouve paralysé.
Telperion訳:
嫉妬した夫の手でパナマで負傷したティト・アリアスは、麻痺状態に陥った。

前置詞parは動詞blesser(負傷させる)の過去分詞blesséに続くので、英語のbyと同様、受動態の動詞の動作主を示す。つまり、parに続く「嫉妬した夫」(un mari jaloux)は、フォンテーンの夫ティトを負傷させた加害者。ティトが女性関係のトラブルで恋敵に撃たれたという説は、出版本の注記でも触れられている(訳本P.158)*。

なお、伝記『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)のペーパーバックP.309によると、ティトは負傷の結果"paralyzed from the neck down"(首から下が麻痺)とあり、全身不随といってよい。Meyer-Stableyの原文は単にparalysé(麻痺した)なのだから、わざわざ半身に限定する理由はない。ノンフィクションなのだから事実はきちんと説明すべきであり、蛇の絵に足を付け足すような加筆は惜しいと思う。

* 訳本では「襲撃」だが、原文では"avait tiré sur lui"(彼に発砲した)と具体的に書いてある。また、Solwayの伝記によると、ティトが撃たれた動機は仕事上の恨みという説が主流であり、恋愛トラブルというのはティトと対立する一派が好む説らしい。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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