伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.10.04
25年前の宮殿庭師頭を現役として紹介した原本
2014.09.30
メンデルスゾーンと関係ない舞踏会の間のオルガン
2014.09.27
Meyer-Stabley原本とメンデルスゾーンの手紙の相違
2014.02.17
共同作業の経験は豊富だったヌレエフ
2013.10.21
母国のヌレエフに同行する通訳とは

25年前の宮殿庭師頭を現役として紹介した原本

『バッキンガム宮殿の日常生活』の原本『La vie quotidienne à Buckingham Palace sous Elisabeth II』にあるおかしい記述は、メンデルスゾーンとオルガンの他にもありました。知識がない私が英国王室本の間違いを見つけるのはほぼ不可能なのですが、運というのはあなどれません。実は、見る人が見れば『Buckingham』も間違いが目立つ本なのでしょうか。

原本の記述

問題の文は次のとおり。

Meyer-Stabley原本:
Fred Nutbeam en est actuellement le jardinier en chef :
『バッキンガム』P.54:
現在の庭師のチーフはフレッド・ナッツビーンである。

多分Nutbeamはナットビームと表記するほうが普通だと思うので、私はナットビームと呼びます。私がこの記事を書くに至った最初のきっかけは、新倉真由美の固有名詞表記が変なせいで、Fred Nutbeamの名前に興味を引かれたことでした。

ここで重要なのはactuallement(現時点では)。Meyer-Stableyはこの後、女王がナットビームとおしゃべりする様子も現在形で書いています。原本の出版は2002年。

原本に反する資料

1978年5月18日付「Lawrence Journal-World」紙の10ページ、記事「Royal Gardener in final Season」より
Fred Nutbeam, head gardener to Queen Elizabeth at Buckingham Palace for more than 24 years, is hanging up his royal gardening tools for the last time.
バッキンガム宮殿で24年以上にわたり女王の庭師頭だったフレッド・ナットビームは王室の園芸道具を最後に壁に掛けようとしている。
2012年5月25日付「The Lady」誌で映像「The Queen’s Garden」を紹介する記事より
The film, made in 1976,
the Queen chats with head gardener Fred Nutbeam,
1976年の映像にナットビームが宮殿の庭師頭として女王とともにいます。
2006年4月20日「The Evening Standard」紙の記事要約より
Fred Nutbeam, who was head gardener at Buckingham Palace for 25 years.
Nutbeam, who died in 1997,
庭師頭として25年勤め、1997年に死去。

1978年に職を退き、1997年に死去した人物が、2002年出版の『Buckingham』で現役扱いだと知った時には、あっけに取られました。単なる出版当時の庭師頭ならまだしも、長年の名物庭師だったらしい人の活動年代を20年以上も間違えるなんて。

バッキンガムの名がタイトルに含まれる本をMeyer-Stableyが出したのは、2002年が初めてではありません。

1991年出版『La vie quotidienne à Buckingham de Victoria à Élisabeth II』
英国アマゾンで取扱対象です。
1986年出版『Buckingham Story』
『Buckingham』記載のMeyer-Stabley著作一覧にあるのを英アマゾンのなか見!検索(Look inside)で読めます。

『Buckingham』では古い本の文がかなり流用されているのかも知れません。でも流用前に現在も使える文かを確かめるくらいはしても当然ですね。

英国王室は専門分野のはずなのに

たかだか数個の間違いを見つけただけで私がやたらと反応するのは、氷山の一角を疑うせいのほかに、Meyer-Stableyが英国王室をネタに何冊も本を書いているせいでもあります。英アマゾンや仏アマゾンで検索した限りでは、2002年の『Buckingham』出版当時、すでにMeyer-Stableyはマーガレット王女、マウントバッテン卿夫人、ウィンザー公爵夫人を題材にした本を出しています。普段縁がない分野の『Noureev』と、散々飯のタネにしている分野の『Buckingham』では、間違いを見つけたときにMeyer-Stableyの著作全般に抱く不信感の程度が違います。

『バッキンガム』の訳者あとがきでも、新倉真由美は原本を褒めてみせています。

ジャーナリストであり、ロイヤルファミリーとも親交のあるスタブレ氏の情報量は膨大であり、イギリス王室の歴史的背景、バッキンガム宮殿の様子、王室の機構、ロイヤルファミリーの公人としての務めからプライベートな生活に至るまで、さまざまな視点で詳細にわたって記述されています。

でも、手を広げ過ぎて考証が雑になっては役に立ちません。『Noureev』のみならず『Buckingham』でも、Meyer-Stabley本を「ジャーナリストが記述する膨大な事実」と信頼するのは危険そうです。

メンデルスゾーンと関係ない舞踏会の間のオルガン

アルバートがメンデルスゾーンの前でオルガンの腕前を披露したときの当時の記録をMeyer-Stableyがいい加減に提示しているらしいと、前の記事で書きました。しかしどうやら、あの記録をあの個所で引用すること自体がおかしいのでした。

アルバートのオルガン演奏のエピソードは、もとはといえば舞踏会の間の説明の一部。直前の文は次のとおりです。

Meyer-Stabley原本:
La salle de bal possède un orgue célèbre - Mendelssohn y joua en 1842 un extrait d'un de ses oratorios.
Telperion訳:
舞踏会の間には有名なオルガンがある。メンデルスゾーンがそこで1842年に自作オラトリオの1曲の抜粋を演奏した。

ところが、英国王室コレクションサイトには、上の記述に反する記述があります。まず、舞踏会の間を描いた絵の説明文から。

The new Ballroom at Buckingham Palace, designed by Sir James Pennethorne, opened in May 1856.

バッキンガム宮殿の新しい舞踏会の間は、サー・ジェームス・ペネソーンによって設計され、1856年に開設した。(Telperion訳)

舞踏会の間が1856年にできたという記述は他のさまざまなサイトでも見かけます。しかし英国王室に関する記述の信頼度という点では、英国王室コレクションサイト1つだけで、Meyer-Stableyの記述を疑わせるには十分です。

そして、 舞踏会の間のオルガンの説明にはこうあります。

In 1818 Lincoln had installed an organ in Nash's newly built Music Room at the Royal Pavilion, Brighton,

1818年にリンカーンはナッシュが新しく建設したブライトンのロイヤル・パビリオンにオルガンを設置した。(Telperion訳。なお、リンカーンとはオルガン制作者Henry Cephas Lincoln)

さらに上記説明ページのOverviewタブの一番下にある"Read more +"をクリックすると、下の引用が読めます。

The new ballroom at Buckingham Palace was built by Thomas Cubitt in 1852-5. On 12 July 1855 Lincoln was paid £68 for 'adapting the organ for the Ballroom at Buckingham Palace' (LC11/136, qtr to June 1856). However, Lincoln only carried out part of the work, with the remainder being carried out by Cubitt, and the organ firm, Gray & Davison.

バッキンガム宮殿の新しい舞踏会の間は、トーマス・キュービットによって1852~5年に建設された。1855年7月12日、リンカーンは「オルガンをバッキンガム宮殿の舞踏会の間に合わせるために」68ポンドを支払われた。しかしリンカーンは作業の一部を行っただけで、残りはキュービット、そしてオルガン会社グレイ&デイヴィソンが行った。(Telperion注: 原文の括弧内部は私には訳せませんでした)

1842年には現在の舞踏会の間はまだなく、そこに設置されたオルガンもまだロイヤル・パビリオンにありました。メンデルスゾーンとアルバートがオルガンを弾いたのは別の部屋、別のオルガンのはずです。実際、メンデルスゾーンの手紙には次のように書いてあるので、アルバートの私室でアルバート個人のオルガンを弾いたのではないかと思います。

メンデルスゾーンの手紙:
Prince Albert had asked me to go to him on Saturday at two o'clock, so that I might try his organ before I left England.
Telperion訳:
土曜の2時に来て、イングランドを発つ前に自分のオルガンを試してほしいと、アルバート殿下に頼まれていたのです。

観光で舞踏会の間を訪れたとして、ガイドに「舞踏会の間には有名なオルガンがあります。メンデルスゾーンがそこで演奏したのです」と言われたら、観光客としては「この部屋のあのオルガンでメンデルスゾーンが演奏した!」とちょっと感動するところです。しかし実際には、メンデルスゾーンはオルガンに触っていないし、アルバートにその音色を聴かされてもいない。メンデルスゾーンは1847年に逝去したので、舞踏会の間に入ったこともない。宮殿案内としてはゆゆしき失態ではありませんか?

更新履歴

2016/12/7
英国王室サイトのリンク切れに伴い、出典リンクを英国王室コレクションサイトのみに変更

Meyer-Stabley原本とメンデルスゾーンの手紙の相違

宮殿を訪問した後のメンデルスゾーンの手紙

先ごろ「メンデルスゾーンとアルバートのオルガン競演」を書くとき、少し好奇心を起こしてgoogleで検索してみました。すると、バッキンガム宮殿に招待されたメンデルスゾーンが家族に宛てた1842年7月19日付の手紙の抜粋が学術文献サイトJSTORで公開されているのを見つけました。出典は「The Musical Times and Singing Class Circular Vol. 43, No. 713 (Jul. 1, 1902), pp451-455」。似たような抜粋をもっと大きい文字で読めるサイトもありますが、出典がはっきりしているのでここではJSTORの文面を使います。

ところがこの手紙では、ヴィクトリア女王の夫君アルバートがメンデルスゾーンのためにオルガンを演奏したときの説明が、先ほどのオルガン競演記事で引用したMeyer-Stableyによる記述と違うのです。私は英国王室についてはバレエよりなお疎いので、Meyer-Stableyが間違っていると断定するのは気が引けます。それでも、強い疑いを抱いています。

比較するMeyer-Stableyの文

メンデルスゾーンの手紙と比較するのは、先ほどの記事の中で«と»に囲まれた部分です。

Meyer-Stabley原本:
« par cœur, avec les pédales, de façon si charmante, si claire et si correcte que son exécution aurait fait honneur à n'importe quel professionnel... et puis toutes les partitions sont tombées par terre et c'est la reine qui les a ramassées »...
Telperion訳:
「暗譜で、ペダルを用い、たいそう魅力的で、たいそう明晰で、たいそう正確だったので、その演奏はどのような本職の者にとっても名誉となったことでしょう…そしてその後、楽譜がすべて落ち、拾い集めたのは女王ご自身でした」…

"comme le rappelle une dame d'honneur"(ある女官がそれを思い返すように)という説明が添えてあるので、回顧するのは匿名の女官。

相違1. 回顧した人物の違い

手紙では、メンデルスゾーンがアルバートにオルガン演奏を頼んだ後のことをこう書いています。

メンデルスゾーンの手紙:
He then played a chorale, by heart, with the pedals, so charmingly and clearly and correctly that it would have done credit to any professional;
Telperion訳:
するとコラールを弾いてくださいました。暗譜で、ペダルを用い、大変魅力的で明晰で正しかったので、どの本職の人間にも名誉になったことでしょう。

女官でなくメンデルスゾーンの感想ではありませんか! たまたまメンデルスゾーンと女官が同じことを書いたとか、女官がメンデルスゾーンの手紙文を借用するとかいう可能性がゼロとは言いません。でも学術的な雑誌に載ったことと、『Noureev』で結構ミスしているMeyer-Stableyが書いたことでは、前者を信用したくなります。

相違2. アルバートの演奏と散らばった楽譜の前後関係

楽譜が落ち、女王自らが拾い集めたというエピソードは、上と同じ手紙にもあります。

メンデルスゾーンの手紙:
and then, suddenly interrupting herself, she exclaimed, “But, goodness! what a confusion!”for the wind had littered the whole room and even the pedals of the organ - which, by-the-way, made a very prettey feature in the room - were covered with leaves of music from a large portfolio that lay open. As she spoke she knelt down and began picking up the music :
Telperion訳:
そして(ヴィクトリア女王は)話を突然中断して叫びました。「でもまあ、なんと散らかっているのでしょう!」。なぜなら風が部屋中を散らかし、オルガン(ところで、これは部屋のとてもきれいな特徴となっていました)のペダルにまでも、開けたままの大きな書類入れにあった楽譜がかぶさっていたのです。陛下は話しながらながら膝をつき、楽譜を拾い始めました。

問題なのは、メンデルスゾーンの手紙では、ヴィクトリアが楽譜を拾ったのはアルバートが演奏する前だということです。メンデルスゾーンと女官の記憶が違っていたとすればつじつまが合いますが、そもそも女官の実在すら疑わしいようでは、ここでもメンデルスゾーンを信じたくなります。

共同作業の経験は豊富だったヌレエフ

私がMeyer-Stableyの見解について今まで異議を唱えたのは、時折「有名人との恋愛関係のうわさを信じすぎ」と書いてきたくらいでしょうか。ヌレエフは見る人によって大きく違うイメージを呼び起こすので(『密なる時』冒頭にあるように)、人によって言うことが違っても、それ自体はおかしくありません。はっきり白黒つけられない題材では物言いをつけにくいものです。でも今回、それでもちょっと違うんじゃないかと思ったことを書いてみます。

監督となって共同作業が開花したというMeyer-Stableyの主張

何が引っ掛かったかというと、次の記事に載っている「ヌレエフはパリ・オペラ座バレエの監督になって初めて共同作業で開花した、それまでとは違う性質の成功を収めた」という見解です。

ヌレエフがパートナーとなった女性ダンサーたちの多くと友好的な関係だったことは12章に書かれていますが(訳本ではその描写が減らされましたが、それでも残ってはいます)、パートナー以外のダンサーたちとの関係を築けたのは監督になって以後という印象です。「以前は会話をかわさずに踊っていた」と書かれるくらいですから。

ヌレエフの協力的な態度の例

でも、ヌレエフについての文をいろいろ読むと、ヌレエフはロイヤル・バレエでよく踊っていた1960年代から、才能と意欲があるダンサーにとっては頼れる存在だったようです。インターネットで読める記事では、このあたりが分かりやすいですね。

Telegraph紙、デヴィッド・ウォールの訃報

デヴィッド・ウォールは1960~80年代のロイヤル・バレエで活躍しました。

For his part, Nureyev regarded Wall with both wariness and a rare affection, seeing him as the young lion most likely to steal his own position, yet valuing his pleasant friendship.

ヌレエフのほうでは、用心深さとまれに見る好意をもってウォールを見ていた。自身の地位を盗み取る可能性が最も高い若獅子と見なしながらも、彼の心地よい友情を重んじていた。(Telperion訳)

Time誌、ヌレエフの生涯の概要より

パリ・オペラ座バレエで若い才能を育てたことに触れた後にこう続きます。

As Royal's dancers had learned years before, when it came to teaching, he was direct, intelligent and tireless.

ロイヤルのダンサーたちが何年も前に学んだように、教えることになると彼は率直で聡明で根気強かった。(Telperion訳)

Independent紙、ヌレエフの訃報より

ヌレエフがイギリスのバレエ界を革新したことを書いた後にこうあります。文脈的にこれもイギリス時代を指しているでしょう。

A reason for Nureyev's influence with dancers was his generosity in sharing the knowledge he possessed, not as some special favour, but as part of the job, an extension of his commitment to perfection.

ヌレエフがダンサーたちに及ぼした影響の理由は、自分の知識を分かち合うことに寛大だったことである。特別な好意としてではなく、仕事の一環として、完璧さへの傾倒の延長としてである。(Telperion訳)

また、Diane Solway著『Nureyev: His Life』の索引には"teaching and coaching of dancers by"(ヌレエフによるダンサーへの教えとコーチ)という項があるくらいで、たとえばペーパーバックP.281には、1963年にロイヤル・バレエでの「影の王国」シーンを演出したとき、影の一人モニカ・メイソンに難易度の高い技をどんどんやらせたそうです。1960年代に「くるみ割り人形」で相手役となったメール・パークや1970年代に「眠れる森の美女」で相手役となったカレン・ケインは、ヌレエフのおかげでキャリアが躍進しています。ヌレエフは自分の振付を上演するとき、ダンサーを指導する機会はいくらでもあったし、十分にそれを活用したようです。

まとめ

そういうわけで、ヌレエフが監督としてバレエ団のレベルを上げたのは、新境地を開いたのではなく、それまでの経歴の延長上にあると私は思います。本当にダンサーたちと会話なしに共演していたのなら、それはパリ・オペラ座バレエが鎖国的でゲストに無関心だったせいではないのかと、私は勘ぐっています。1980年のニューヨーク・ツアーのキャンセル事件もあるし、1961年にキーロフ・バレエがパリに来たとき、フランスのダンサーがキーロフのダンサーの練習を見に来ないとヌレエフが語っていましたし(訳本P.81)。

Meyer-Stableyがパリオペ以外のバレエ団やダンサーに大して興味がないので、そちらでのヌレエフの業績を書くのを省いた可能性もありますね。別格のフォンテーンの経歴はたくさん書いていますが(訳本ではほとんどカット)、ロイヤル・バレエの扱いは、結局フォンテーンがいたバレエ団という程度ですから。

母国のヌレエフに同行する通訳とは

今回は原本の間違いと思しきことについて。

『ヌレエフ』P.281:
ボディーガードとおかしなことに通訳に伴われ、
Meyer-Stabley原本:
Accompagné d'un garde du corps et (curieusement) d'une interprète, Jeanine Ringuilt,
Telperion訳:
ボディガードと(奇妙なことに)通訳のジャニーヌ・リンギルに伴われ、

26年ぶりにソ連に入国したヌレエフがモスクワで飛行機の乗り換えを待っていたときの同行者について。ソ連生まれのヌレエフがソ連で通訳を連れている、確かにおかしなことです。私は初めて読んだとき、「ソ連生まれであっても今では外国人同然だ」というソ連当局の当てつけとして通訳が押し付けられたのかと思いました。次に訳本の間違いを疑いましたが、原本でもinterprète(通訳)という記載でした。その謎を解く鍵となったのは、原本にある通訳の名前、Jeanine Ringuiltでした。

『Nureyev: The Life』(Julie Kavanagh著)より
Janine Ringuetなる人名が載っています。1960年当時、フランスとソ連の文化交流を専門にするパリの組織で働く"assistant impresario"であり、ヌレエフの才能を見込んで1961年にヌレエフのパリ行きを実現させたそうです。1987年のヌレエフのソ連行きにも同行しました。
『Nureyev: His Life』(Diane Solway著)より
このソ連行きの同行者の一人としてJeanine Ringuitという名があります。キーロフとともにパリで過ごした最初の頃に会った、ロシア語を話すimpresarioという説明です。

impresarioのしっくりくる日本語訳は分からないのですが、公演のプロデューサーらしいです。ソ連の芸術家の招待公演を手配するのを仕事にしているなら、ヌレエフと知り合いでソ連に馴染みがあり、ソ連まで同行するのもうなずけます。

Kavanagh本とSolway本で触れられる同行者と似た名前の通訳…これって、Meyer-Stableyがimpresarioとinterprète(通訳)を読み違えたんですよね?ソ連でヌレエフに通訳が付くのは意味がなさすぎるし、そんな似た名前の二人がたまたま同時にヌレエフに同行なんて、確率低すぎです。

似たような単語を読み間違えるのは、新倉真由美が何度もしていますが、Meyer-Stableyもするんですね。人名や作品名などでは時々見かけますが、普通名詞で気づいたのは今のところこれだけです。

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プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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