伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2013.03.01
ブルジェ空港のKGBとCRS
2013.01.22
クジラのいる場所がアンヴァリッドから海岸に
2013.01.13
存在しなさそうな技法マネージュ・コンポゼ
2013.01.12
ポワントのダブル・フェッテができるのが世界に一人?
2012.12.19
官僚兼マエストロ?

ブルジェ空港のKGBとCRS

『密なる時』P.14:
KGB(ソ連の国家保安委員会)はソ連市民であるヌレエフの自由を阻止するため、私服の警官を使って非常警戒網を張りめぐらせていた。フランスのCRS(共和国保安機動隊)はKGBの意図を測りかねながら、あらゆる偶発的な亡命の事態に備え、空港のあちらこちらに巧妙に配置されていた。
プティ原本:
Le KGB, pour entraver la liberté du citoyen soviétique, avait organisé un barrage fait de policiers russes en civil accompagnés de CRS français qui se demandaient ce qu'ils faisaient là, savamment dispersés dans l'aéroport pour pare à toute éventuelle évasion.
Telperion訳:
KGBはこのソ連国民の自由を妨げるために、フランスのCRSに同伴された私服のロシア警官でできたバリケードを組織していた。ロシア警官たちはここで何をしているのかと自問しながら、発生しうる脱走に対処するために空港内で巧みに分散配置されていた。

KGBの行動

関係節"qui se demandaient ce qu'ils faisaient là"の述語"se demandaient"(自問していた)は三人称複数の活用形なので、その主語である先行詞は三人称複数の名詞だと分かる。しかし、関係節の直前にある"CRS français"は、形容詞françaisの語尾が単数形なことから分かるとおり、単数形。したがって、この関係詞が修飾するのは、CRSの前にある"policiers russes en civil"(ロシアの私服警官たち)。警官たちの自問の内容である"ce qu'ils faisaient là"は間接話法で書かれており、直接話法で書くと、« Que faisons-nous ici ? »(私たちはここで何をしているのか)。

関係節の後の分詞構文"savamment dispersés dans l'aéroport pour pare à toute éventuelle évasion"(発生しうる脱走に対処するために空港内で巧みに分散配置されていた)は、過去分詞dispersésの語尾が複数形なので、これもロシア警官を指している。仏和辞書にあるévasionの意味は「脱走、逃避」など。この単語はソ連警官の行動について書いた文の中にあるので、西側から見た「亡命」ではなく、ソ連側から見た呼び方をしている。

CRSの行動

CRSは"accompagnés de CRS français"(CRSに伴われ)という形でロシア警官たちを修飾しており、原文でCRSについて書かれているのはこれだけ。ブルジェ空港のKGBにCRSが同伴していたというのは初耳だし、プティの話がすべて事実とは限らないが、KGBとCRSが共同でバレエ団の安全を確保するという名目を立てるのは、ありえない話ではない。

亡命者を支援するためにフランス政府が人員を配置するよりは、逃亡を恐れてソ連政府が人員を配置するほうが、ありそうだと思う。亡命先の憲兵が潜んでいても、それをあらかじめ想定するわけにはいかない亡命者にとってはあまり役に立たないだろうから。ヌレエフの亡命を助けた警官たちも(彼らの職業については「三日月クラシック」の記事から「P.97 出入国検査官」の項を参照)、クララ・サンに助力を乞われて初めてヌレエフのそばに行っている。

クジラのいる場所がアンヴァリッドから海岸に

『密なる時』P.59:
それはまさに私が、ヌレエフと傷を負い弱々しく陸に打ち上げられた鯨との共通点について発言した時だった。パリジャンたちはこぞって波打ち際へ急ぎ、海の巨獣を見ることを切望していた。ただ単に「そこに行ってそれを見てきた」と言うためだけに。
プティ原本:
C'est à ce moment précis que j'ai pris la parole pour raconter la similitude entre Rudolf et la baleine exposée sur la place des Invalides, les Parisiens se précipitaient, ils voulaient tous visiter le géant des mers, pour simplement pouvoir dire « j'y étais et je l'ai vue ».
Telperion訳:
ルドルフとアンヴァリッドの広場に展示されたクジラが似ていることを語ろうとして私が発言したのは、ちょうどこの時だった。パリの人々は押し寄せ、皆が海の巨獣を見物したがっていた。単に「そこにいてあれを見た」と言えるようになるために。

クジラのいる場所

クジラがいる場所の説明のなかで特に目立つ言葉はInvalides。invalideは形容詞「体の事情で働けない」、または名詞「体の事情で働けない人、傷痍軍人」。新倉真由美はクジラの形容だと思ったらしいが、Invalidesは定冠詞lesが付いているから(直前のdesは"de les"の縮約形)、複数形の名詞であり、クジラと合わない。また、頭文字が大文字であることから、何か特別な固有名詞のように見える。

ある程度パリに詳しい人なら、"les Invalides"とはルイ14世が傷病兵のために建設した由緒ある施設アンヴァリッドだと分かると思う。現在、アンヴァリッドの一部は軍事博物館として公開されている。exposerは「展示する」。placeの意味はいろいろあるが、アンヴァリッドの一部であり、クジラが展示されているのだから、「広場」が妥当だろう。

Invalidesの意味以外でも、新倉真由美の解釈にはいろいろな無理がある。

  • 「波打ち際」という言葉は原文にない。
  • placeの意味がいろいろあると言っても、「陸」という意味はない。
  • exposerには「展示する」の他に「さらす、陳述する」といった意味があり、「打ち上げられた」と解釈できるか怪しい。

また、新倉真由美の書き方では、パリが海岸に面しているかのようだが、もちろん実際はそうでない。セーヌ川沿岸を「波打ち際」とは言わないだろうし、クジラがパリまではるばるセーヌ川をさかのぼることもありそうにない。『Temps Liés avec Noureev』を翻訳中に『Noureev』をルーブル美術館で見つけた新倉真由美は、いくら何でもパリの場所くらい知っているはず。どこかよその海岸に向かってパリ市民が出かけたという解釈なのだろうか。

プティによるヌレエフの呼び名

プティはこの本でヌレエフの名を出すとき、Noureev、Rudolf、Monsieur Noureevという3通りを使い分けている。なぜか『密なる時』では、Rudolfが恐らくすべての場所で「ヌレエフ」に置き換えられている。なかでも、プティがヌレエフに直接呼びかけるとき(『密なる時』のP.59とかP.90とか)、原文が"Rudolf,"なのに訳本が「ヌレエフ、」なのには、特に違和感がある。『ヌレエフ』ではルドルフもヌレエフも原文に応じて使われているが。

強調構文

"C'est A que B"は「BなのはAである」という強調構文。「ちょうどこの時、ルドルフとクジラの共通点を語った」という文の語順を「ルドルフとクジラの共通点を語ったのは、ちょうどこの時だった」と入れ替えている。

「この時」とは、その日の公演のヌレエフが不十分な出来に見えた時。プティがクジラの話をしたのはそのせいだろうから、「それは私がルドルフをクジラにたとえた時だった」より「私はルドルフをクジラにたとえたのはその時だった」のほうが、公演のヌレエフがクジラ話につながるという因果関係を表せていると思う。

存在しなさそうな技法マネージュ・コンポゼ

『密なる時』P.32:
単純で長いマネージュ・コンポゼ(注2)
プティ原本:
un long manège composé de pas très simples
Telperion訳:
非常に単純なパから成る長いマネージュ

プティがフォンテーンとヌレエフに初めて振り付けた「失楽園」の振付の一部。

文法的な説明

  • manègeはバレエ用語
  • pasはバレエ用語
  • "composé de ~"は「~から構成される」

これだけ分かっていれば、誰でも"manège composé de pas très simples"を「非常に単純なパから構成されるマネージュ」と訳すはず。

もっとも、"manège composé de pas très simples"を「非常に単純なパのマネージュ・コンポゼ」と訳せることもあるかも知れない。しかしそれには、「マネージュ・コンポゼ」が認知されたバレエ用語でなければならない。

不発に終わったマネージュ・コンポゼの説明探し

ところがいろいろ読んでも、マネージュ・コンポゼという用語はちっとも存在しそうに思えない。

新倉真由美による訳注

新倉真由美はマネージュ・コンポゼに訳注を付けている。さて、どういう説明だろうか。

『密なる時』P.35:
注2 マネージュ・コンポゼ 舞台上に円を描く一連の動き。

…これは単なるマネージュではないのか?新倉真由美は別のページでマネージュに注を付けているので、比べてみる。

同P.65:
注5 マネージュ 円の軌道を描きながら移動して行う一連の動き。

同じ動きを指すように見える。これではマネージュとマネージュ・コンポゼを呼び分ける意味がない。無理やり違いを挙げると、こんなところだろうか。

マネージュ・コンポゼ
  • 舞台上のこと
  • 円を描くのが主目的
マネージュ
  • 舞台上に限らない
  • 円を描く以外の動きも含まれる

でも、バレエ用語には疎い私でも、マネージュが円を描く動作を指すことは知っている。新倉真由美の説明には到底納得できない。

『[新版] バレエ用語辞典』(川路明編著、東京堂出版)

composéという単語が入った用語は「デブロッペ・コンポーゼ・アン・プロムナード」のみ。プロムナードをしながら、ある方向へのデブロッペから別方向へのデブロッペに移行することだとか。"manège composé"に応用できそうな言葉ではない。

googleでの検索

「マネージュ・コンポゼ」はヒットなし。"manège composé"だと数々のフランス語の文がヒットするが、少し目を通した限り、バレエ用語として使われているように見えない。

結論

訳者経歴に所属教室や数々の参加公演を書き連ねる新倉真由美が提示するバレエ用語に、バレエをろくに知らない私がケチをつけるのは、なかなかとんでもない事態だと思う。それでもなお私は、プティは"manège composé"を認知されたバレエ用語として使っているのではないと断定する。

更新履歴

2014/9/23
箇条書きによる列挙を小見出しによる列挙に変更
2015/2/23
どこか小さいコミュニティでマネージュ・コンポゼなる用語が使われているかもという譲歩をやめる

ポワントのダブル・フェッテができるのが世界に一人?

『密なる時』P.52-53:
「舞踊界において私は私以外の何者でもなく、ヌレエフでさえできなかったダブルフェッテ(注2)をポワント(爪先立ち)でできる世界で唯一のダンサーなのだ」
同P.65:
注2 ダブルフェッテ 片足の跳躍を利用してもう一方の足で行う回転技で、本来は男性ダンサーのみが行う超絶技巧。
プティ原本:
« Dans la danse je ne suis pas n'importe qui, je suis le seul danseur au monde à faire les fouettés doubles sur pointes*, même Noureev n'en fait pas autant. »
* Enchaînement de pirouettes sur une jambe, en utilisant l'élan de l'autre jambe, exercice réservé exclusivement aux ballerines.
Telperion訳:
「バレエにおいて私はどうでもいい人間ではなく、世界で唯一ポワントでダブルのフェッテ*をした男性ダンサーであり、ヌレエフすら同じことをしない」
* 片方の足の勢いを利用し、もう片方の足でする連続ピルエット。バレリーナ専用の運動。

ダンサー、ジャック・シャゾ(Jacques Chazot)がプティに語ったこと。

プティはポワントまで含めた言葉に注を付けた

新倉真由美は注が指すのがダブルフェッテ(les fouettés doubles)だけとしている。しかしプティの注マークは、doublesの後でなくpointesの後にある。つまりプティが注を入れた語句は、「ポワントでのダブル・フェッテ」(les fouettés doubles sur pointes)全体。

ポワントのダブル・フェッテは男性の技でなく女性の技

プティの注にある"exercice réservé exclusivement aux ballerines"の訳は、上に書いたとおり「バレリーナ専用の運動」。「男性ダンサー」や「本来」や「超絶技巧」に当たる単語はない。

実際、ポワント立ちはマリー・タリオーニが起源と言われ、今に至るまで女性の技で、男性がするのは異例のはず。ポワントでのダブル・フェッテがバレリーナ専用という記述にはうなずける。

ポワントのダブル・フェッテは男性がするからこそ特別

シャゾは自分をポワントでダブル・フェッテをする世界で唯一のdanseurと呼んでいる。このdanseurというフランス語は、場合によって次のいずれかを指す。

  1. 男女を問わないダンサー一般
  2. 男性ダンサーだけ

新倉真由美の「世界で唯一のダンサー」を読むと、男女合わせたすべてのダンサーの中でただ一人という意味に取りたくなる。でも、今ではオディールの連続フェッテの最中にダブル・フェッテを入れる女性ダンサーは珍しくない。数十年前はテクニックのレベルが今ほどでなかったにしても、ダブル・フェッテをできるのがシャゾだけだったというのは信じがたい。

しかし、もしシャゾの言うdanseurとは男性ダンサー限定だとすれば、確かにそんなことする酔狂な男性ダンサーはめったにいないだろうと思える。「ヌレエフですら」(même Noureev)の後に続く述語faitは「できる」でなく「する」なのにも注意したい。

プティはバレエ通を読者として想定しているらしく、技の説明はほとんどしない。なのにここに限って、ポワントのダブル・フェッテに注を付けた(新倉本にある他の技を説明する注は新倉真由美オリジナル)。恐らく「女性ダンサーだけの運動」と書き添えることで、シャゾが男性ダンサーとして自分のフェッテを自慢したと読者に理解させたかったのだろう。

男性だから特別という論点が消失した新倉本

日本語では「男性ダンサー」と明記しないと分からないところで新倉真由美が単に「ダンサー」と書いたのは、ありがちな不手際だろう。でも、プティがバレリーナ専用と書いたフェッテを「ダブル・フェッテは本来は男性ダンサーのみが行う超絶技巧」と書き換えたのは、ケアレスミスにはとても見えない。「シャゾは男女のダンサーの中でダブルフェッテができる唯一のダンサー」をもっともらしく見せるために、意図的にプティの注を打ち消したとしか思えない。

でも、「白鳥の湖」にせよ、「ドン・キホーテ」や「ラ・バヤデール」にせよ、フェッテは女性ダンサーの見せ場として登場する。新倉真由美が唱える「ダブルフェッテは本来は男性ダンサーのみが行う超絶技巧」という説に根拠はあるのか、私はとても疑っている。

自分の優位を誇る平易な表現

"n'importe qui"は「誰でも」「取るに足りない人」という2つの意味がある。ここでは「私は~でない」で使われるのだから、当然後者の意味だろう。新倉真由美の「私は私以外の何者でもなく」は哲学の話でもしているのかと思いたくなるが、実際のシャゾの言葉「私は取るに足らない人間ではない」は平易。

更新履歴

2015/2/24
新倉本の問題を単独の節で取り上げる

官僚兼マエストロ?

『密なる時』P.85:
文化庁に勤務していたマエストロ、ロシュ=オリヴィエ
プティ原本:
Roch-Olivier Maistre qui travaille à la Culture
Telperion訳:
文化省で働くロッシュ=オリヴィエ・メーストル

ヌレエフが1987年にソ連に一時帰国したとき同行した人物。Roch-Olivierはハイフンでつながれているので、ひとまとめでファーストネームであり、Maistreが姓。『Noureev』にこの名は出ないが、別の伝記に記載があることは、記事「ソ連への帰国とフランス文化大臣の関係」で書いた。

恐らく新倉真由美はMaistreをmaître(巨匠)と見間違えたのだろう。しかし「マエストロ」は人名の前に付くもの。それに文化省(フランスなので文化庁ではない)の官僚をマエストロと呼ぶのは奇妙であり、本当にそう呼ぶ事情があるなら説明しそうなもの。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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