伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

2014.01.28
ヌレエフの毒舌にプティが動揺したとは限らない
2014.01.23
真っ赤になったわけではなさそうなプティ
2013.12.13
メーク中は「若者と死」の撮影対象外
2013.11.25
困難がない生き方と困難を無視しない生き方
2013.11.21
指揮者転向の足掛かりに適したバレエ伴奏

ヌレエフの毒舌にプティが動揺したとは限らない

『密なる時』P.41:
彼はそれを使うことを好んでいたが、それは恐怖感やショックを与え、私を情緒不安定にさせた。
プティ原本:
qui font peur, et il aime ça, choquer et rendre son interlocuteur instable.
Telperion訳:
おかげで相手は怖がり、ショックを受け、不安定になったし、彼はそれを気に入っていた。

ヌレエフの話し言葉について述べた長文の最後。この部分は、ヌレエフが多用する攻撃的なアメリカ英語について説明する関係節。文全体を解読するのは私にはとても難しかったので、前の部分は棚上げにした。

話し相手にプティが含まれるかは分からない

  • ヌレエフの言葉が恐れさせ、不快にさせ、不安定にするのは"son interlocuteur"(彼の話し相手)
  • プティはここでヌレエフの言葉づかいや友人関係を長い間語るのだが、その間に自身に触れるのは、「彼はマーゴについて私にこう打ち明けた」だけ。

つまり、「彼の相手」がプティ一人だと決めるべき要素はない。単なる一般論と見なすほうが無難。

ヌレエフが好んだこと

挿入されている"et il aime ça"(そして彼はそれを好んだ)にある指示代名詞ça(それ)は、既出の名詞を厳格に置き換えるよりは、漠然としたことを指すことが多い。この場合、「(ヌレエフの言葉が)相手を恐がらせる」という説明が始まってからçaが現れることから、相手が怖がるという状況を指すのだろうと思う。

新倉真由美の訳を読む限り、ヌレエフが好んだ「それ」と恐怖感を与えた「それ」は同じものに見える。その場合、"qu'il aime et qui font ~"というように、どちらも同じく関係節で説明するほうが自然に思える。

何かとプティの話にする新倉真由美の癖

原本ではプティ自身の話でないのに、訳本ではプティが出てくるのは、『密なる時』ではそう珍しくない。今までにこんな例を見た。

  1. 「観客がタクシーを探した」が「私は群衆に急き立てられながらタクシーを探した」に
  2. 「楽園でテルプシコーレに再会する」が「私の創造する芸術世界の楽園へ再び戻る」に
  3. 「人気のミュージカルを見ないのが不可能だった」に「もはや私には」が追加
  4. 「彼にためらわせた」が「我々にためらわせた」に

ここでの例は最初の2例ほどとんでもなくはないが、それでも強引さを感じる。奇妙な癖だと思う。

真っ赤になったわけではなさそうなプティ

『密なる時』P.32:
この奇想天外な説明に私は赤面し、それが少しどころではなかったことは神様がご存知だろう。
プティ原本:
Suivirent des explications rocambolesques qui me firent monter le rose aux joues, et Dieu sait s'il en faut plus qu'un peu pour me faire rougir.
Telperion訳:
途方もない説明が続いたために私の頬はピンク色が差し、私を赤面させるために必要なことが少しですむかどうかは神のみぞ知る。

初めてフォンテーンとヌレエフに振付けた「失楽園」の初演前、「今日は3回愛し合ったから今夜の気分は最高」みたいなことをヌレエフに言われたプティ。

構文解釈

引用したうち前半の解釈は新倉真由美とそう違わないので、後半に絞って書く。

  • 神が知ることの内容である"s'il en faut plus qu'un peu pour me faire rougir'の直訳は、「私を赤くするために少しのそれより多いものが必要かどうか」。
    • "il faut A pour B"は「BするにはAが必要だ」。その前にs'が付くことで、「BするにはAが必要かどうか」となる。
    • 「少しのそれより多いもの」に当たる語句は、中性代名詞enと"plus qu'un peu"。たとえば「少しの花より多いもの」なら"plus qu'un peu de fleurs"となる。「花」を「それ」に言い換えると、"de fleurs"がenに言い換えられ、述語fautの前に移動する。
  • "Dieu sait ~(神が~を知る)は文脈によって次のことを表す。
    • 「~なのは間違いない」という断言
    • 「~なのは分からない」という不確かさ
    この場合、後に続くのが「~が必要かどうか」という疑問なので、表すのは不確かさ。

プティが言いたいこと

人を赤面させるために必要なものは、無遠慮さ、はしたなさなどいろいろ考えられる。プティは中性代名詞enを使うことで、具体的には明言せずにすませている。「それ」が何なのかを深く考えずにこの後半の文を読むと、「私が少しのことでは赤面しないかどうかは何とも言えない」と言い換えられると思う。

「ヌレエフが露骨なエロ発言をし、プティが頬を染めた」という文脈を考えると、プティを赤面させるのが易しいかどうかに応じて、プティの内心はこんな感じなのだろう。

  • 赤面させるのが易しい
    私はすぐ赤面する人間なのだから、あんなことを言われたら赤くなるに決まっている。
  • 赤面させるのが易しくない
    私は簡単に赤面しない人間なのに、あまりの言い草に赤くなってしまった。

次のことから、私の考えでは「簡単には赤面しない」のほうがありえそう。

  • 「ヌレエフったらあんなこと言って」という気持ちを強調できる。
  • プティは長年バレエ界で仕事をしてきたのだから、ある程度の奇矯さには慣れているだろう。

プティの赤面の程度

もう一つ、私が「プティを赤面させるのは易しくない」説を取る理由がある。引用した前半でプティが"le rose"(バラ色、ピンク)という言葉を使っていること。後半の一般論ではrougir(赤くなる)という単語を使っているが、実際になった色を表すときは赤でなくピンク。プティの頬が染まったとしても、たかが知れていたのではないだろうか。

メーク中は「若者と死」の撮影対象外

『密なる時』P.37:
メイキャップのカット撮影の時、私はヌレエフが目の前に掲げて自分の顔を見ていた手鏡をつかんだ。
プティ原本:
A un raccord de maquillage je tenais le miroir du danseur devant son visage,
Telperion訳:
メーク直しの時、私はダンサーの鏡を顔の前で支えていた。

ヌレエフとジジ・ジャンメールの「若者と死」の収録現場でのひとこま。この映像は商品化されており、ヌレエフ財団サイトに撮影の説明(音楽が流れるので注意)がある。

撮影ではなくメイク直しをしていた

raccordの一般的な意味は「接合、つなぎ」といったものだが、転じて化粧直しを指す話し言葉でもある。原文ではわざわざraccordに"de maquillage"(化粧の)が付いているのだから、間違いなく化粧直し。新倉真由美がraccordを「カット撮影」としたのは、この単語から英語のrecord(記録)を連想したからではないかと私は想像している。

「若者と死」の映像商品の説明や、ヌレエフ財団サイトの説明を読む限り、収録されたのは完成した作品のみと思われる。ドキュメンタリー用に楽屋を撮影していたとか、他のマスコミが取材に来て写真を撮ったとかいう可能性もあるが、推測を積み重ねるより、raccordをよく調べるほうが確実。

プティはずっと鏡を持っていた

新倉真由美の書き方だと、ヌレエフが鏡を持っていたところにプティが割って入ったように見える。しかし次に挙げる点から、プティは最初から鏡を持っていたのだと思う。

  • この鏡はダンサー、ヌレエフの顔の前にあるというだけであり、ヌレエフが掲げていたという記述はない。
  • プティが鏡を持つ動作は動詞tenirで表現してある。仏和辞書を引くと、tenirは一瞬の動作よりは持続する動作を指すのに使われる言葉だということが分かる。
  • 原文にあるtenaisはtenirの直説法半過去。直説法半過去とは、過去の持続する動作を指すための時制。現に、この部分の近くにある、一瞬の動作を指す述語の時制は、demanda(尋ねた)とdevint(~になった)が直説法単純過去、"ai répondu"(答えた)が直説法複合過去。tenaisとは区別されている。

困難がない生き方と困難を無視しない生き方

『密なる時』P.58:
そうやってヌレエフは何事もおざなりにすることなく生活し、アスリートの人生には必要とされる、大きな困難も名声に執着する憂鬱もなかった。
プティ原本:
Vivre ainsi en ne négligeant rien, ni les grandes difficultés qu'exigeait sa vie d'athlète, ni l'ennui de cultiver sa gloire,
Telperion訳:
アスリートの生に不可欠な大きな困難も、栄光を育むことの倦怠も、何ごとも無視せずにこうして生き、

"Aを否定する文 ni B"は、Aを否定した後でBも否定するための構文。上の原文に当てはめるとこうなる。

A
rien(何も)
B
  • les grandes difficultés qu'exigeait sa vie d'athlète(彼のアスリートの人生に不可欠な大きな困難)
  • l'ennui de cultiver sa gloire(彼の栄光を育てることの倦怠)
Aを否定する文
en ne négligeant rien(何も無視せずに)
Bも否定する文
  • 彼のアスリートの人生に不可欠な大きな困難も無視せずに
  • 彼の栄光を育てることの倦怠も無視せずに

ヌレエフは困難さがない気楽な生活をしていたのではなく、困難にも倦怠にもきっちり対処し、乗り越えていたのだろう。実際、プティは「彼の人生に不可欠な困難」(difficultés qu'exigeait sa vie)と書いている。それに、膨大な練習を毎日欠かさなかったヌレエフには、「困難がない」より「困難から逃げない」のほうが似つかわしい。

2014/2/26
文法説明の書き直し

指揮者転向の足掛かりに適したバレエ伴奏

『密なる時』P.94:
また彼はクラシックバレエのレパートリーを演奏するオーケストラの指揮も行った。
プティ原本:
Il dirigeait aussi des orchestres qui accompagnaient des ballets du répertoire classique,
Telperion訳:
彼はクラシック・レパートリーのバレエの伴奏をするオーケストラの指揮もした。

現役ダンサーであり続けるのが難しくなったヌレエフが指揮に挑戦したことについて。

通常の演奏でなく伴奏

accompagnerの基本的な意味は「~に伴う」で、音楽用語としては「~の伴奏をする」。オーケストラが伴奏しているのはaccompagnerの目的語である"des ballets du répertoire classique"(クラシック・レパートリーのバレエ)。ヌレエフが指揮したのは、バレエ公演を伴奏するオーケストラ。

新倉真由美の文では、「バレエを伴奏する」が「レパートリーを演奏する」になった。このため、普通のオーケストラ演奏会での演奏のように見える。言うなれば、「ロミオとジュリエット」全幕公演が、組曲「ロミオとジュリエット」の演奏会になったようなもの。

バレエ界からクラシック音楽界への転向しにくさ

クラシック音楽界ではバレエはオペラの添え物扱いで軽視されているらしい。ヌレエフ絡みだと、次のような例がある。

  • Diane Solway著『Nureyev: His Life』ペーパーバックP.312や、Julie Kavanagh著『Nureyev: The Life』ペーパーバックP.320によると、ヌレエフが1964年にウィーンで「白鳥の湖」を振付・演出した際、天下のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に音楽について指示した結果、楽団員たちに反発された。
  • Meyer-Stabley著『Noureev』でヌレエフの談話の中に、「パリ・オペラ座では世界中のオペラ座同様、バレエは役立たず(la cinquième roue du carrosse)と見なされています」という言葉がある。ちなみに訳本『ヌレエフ』で対応する新倉真由美訳は、P.250の「隅に追いやられています」。
  • Meyer-Stableyは『Noureev』で、ヌレエフに音楽界でのバレエ軽視を打破する望みがあったと書いている(「バレエ音楽軽視の現状を変えるため」)

バレエ界のスターであっても音楽の専門家でないヌレエフが指揮する際、オーケストラが主役の演奏会を率いるよりは、バレエの伴奏者となるほうが恐らく敷居は低い。新倉真由美の文の状況がありえないわけではないが、プティの文のほうが納得しやすい。

更新履歴

2015/3/16
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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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