伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

新たな挑戦が陰気な闘病に書き換わる

『ヌレエフ』P.296:
体調は悪化する一方だったが、ルドルフはオーケストラの指揮の講習を受けていたヴァルジャン・コージアンとウイルヘルム・ヒュブナーに数ヵ月間病気を隠していた。
Meyer-Stabley原本:
Deux raisons expliquent cette difficile décision : sa santé ne cesse de s'altérer, mais surtout Rudolf prend en secret depuis plusieurs mois, avec Varujan Kojian puis Wilhelm Hübner, des cours pour diriger un orchestre.
Telperion訳:
この困難な決定は2つの理由で説明される。健康は悪化し続けていたが、それよりルドルフは数か月間密かにヴァルージャン・コージアン、次いでヴィルヘルム・ヒュブナーに、オーケストラの指揮のレッスンを受けていたのだ。

ヌレエフがダンサーとしてついに引退したことが語られた後に続く文。「この困難な決定」(cette difficile décision)とはもちろん、ダンサーとして舞台に立つのをやめるという決定。

引退の理由の1つははレッスン受講

引退を決意できた理由の1つは健康の悪化(sa santé ne cesse de s'altérer)。そしてもう1つの理由が、「しかしとりわけルドルフは」(mais surtout Rudolf)で始まる文。この文の述語はprendで、その後にいくつかの語句が続く。

  1. en secret(密かに)
  2. depuis plusieurs mois,(数か月前から)
  3. avec Varujan Kojian puis Wilhelm Hübner,(ヴァルージャン・コージアン、次いでヴィルヘルム・ヒュブナーとともに)
  4. des cours pour diriger un orchestre(オーケストラを指揮するためのレッスン)

このうち唯一、前に前置詞が付かない"des cours pour diriger un orchestre"が、述語prendの直接目的語。述語の動詞prendreは多くの意味を持つが、ここでは目的語がレッスンなのだから、「(レッスンを)受ける」となる。

新倉真由美は"prend en secret"を「秘密にする」と解釈したらしい。だとすると「(講習を)受けていた」に当たる単語が原文から消えるが、新倉真由美は自分で創作することでつじつまを合わせた。なお、「病気を」も新倉真由美の創作であり、対応する言葉は原文にない。

原本ではヌレエフが新たなステージに進む

原本では、ヌレエフのダンサーとしての引退を語った後、段落が切り替わる。そしてこの文から始まる新たな段落で、ヌレエフが指揮者としての活動に傾倒していくさまを語る。この文が新たな段落の先頭になることは、舞台を去った後も心機一転して次の舞台に向かうヌレエフの姿を浮かび上がらせる効果的な手段となっている。しかし訳本では同じ段落で続けた上に、病気ばかり強調したこの内容。おかげでひどく陰気な印象になってしまった。

更新履歴

2014/3/4
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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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