伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

数年でエトワールになるのは難しい

『ヌレエフ』P.272:
エトワールの称号は数年間の実績で与えられるが、この若きダンサーに幸運が舞い込んだのは驚きだった。
Meyer-Stabley原本:
Ce titre d'étoile couronne des années de travail, mais peut aussi échoir à un très jeune danseur, comme une heureuse surprise.
Telperion訳:
エトワールというこの称号は、何年間もの働きのしめくくりとなる栄誉だが、嬉しい驚きとしてごく若いダンサーの手中に転がり込むこともある。

シルヴィ・ギエムのエトワール任命に触れた文に付いた注より。

純粋に原文だけを見ての考察

若くしてエトワールになるのはギエム個人でなく一般論

後半の文で新倉真由美が「この若きダンサー」と呼ぶのは、ギエムだと見なすのが普通だろう。しかし原文の"un très jeune danseur"(ごく若いダンサー)が指すのはギエム一人ではなく、若いダンサー全般。

  1. フランス語では、男性ダンサー(danseur)と女性ダンサー(danseuse)は区別される。男女どちらかに断定できないダンサーをdanseurと呼ぶことはあっても、女性だとはっきりしているダンサーをdanseurと呼ぶことはない。
  2. danseurに不定冠詞unが付いている。特定のダンサーを指すなら、定冠詞を付ける。女性であるギエムなら"la danseuse"になるはず。

2番目の文は、一般論として若いダンサーがエトワールの称号を得る事例の存在を述べている。私の訳(「嬉しい驚きとして」から文末まで)はほとんど直訳。

エトワールになるまでの年数は長いのが普通

"des années"は文脈次第で「数年」とも「何年も」とも訳せる。しかしこの文で「数年間」と訳すことには、いくつか不都合な点がある。

  1. 引用部分は2つの文がmais(しかし)で結ばれている。先ほど述べたように、2番目の文が「ごく若いダンサーがエトワールになることもある」なのだから、それと反する1番目の文は、「エトワールになるダンサーはあまり若くないことが多い」だと予想できる。
  2. 最初の文の述語の動詞couronnerは「~の最後を飾る、~の締めくくりとなる」という意味。つまり、エトワールの称号はある程度の年数の仕事の最後を飾るもの。その年数が短すぎては、「最後を飾る」という表現の重さと釣り合わない。

年数の多さを強調し、「エトワールになるのは何年も働いた後」という印象を持たせるほうが適切に思える。

実際の状況と合わない新倉真由美の文

今までは目の前の仏文だけと向かい合ってきたが、今度はパリ・オペラ座バレエならではの事情を考慮する。

数年でエトワールになる例は少ない

パリ・オペラ座バレエは16歳くらいでの入団が多い。入団5年後にエトワールになれれば早い方で、10年がかりも珍しくない。

一般に日本語の「数年」は2~3年、またはせいぜい5~6年。「数年の実績で与えられる」だと、エトワールになるのは20歳そこそこが普通のような印象になり、まったく実情に合わない。

ギエムはもともと将来のエトワール候補

ギエムはエトワールになる1年前の1983年にヴァルナのコンクールで金メダルを授与されているし、バレエ学校に入学したのも、クロード・ベッシーにスカウトされてのことだという。キャリアの最初から前途洋洋だった。

新倉真由美の訳文からは、「バレエ団に入って3年でエトワールになるのは普通。しかしギエムがエトワールに選ばれたのは驚きだった」という印象を受ける。しかし当時の反響としては、「非凡なギエムがエトワールになるのは当然。しかし入団後わずか3年でなるのは驚きだ」のほうが普通だったろう。

更新履歴

2014/9/26
事実との比較だけでなく純粋な仏文解釈論も強化

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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