伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

エリック・ヴュ=アンを昇進させやすくするためのルグリ昇進

『ヌレエフ』P.260:
ベジャールによれば彼はバレエの責任者とオペラ座の最高顧問アンドレ・ラリックに、何度もエトワール指名について提案を行っていた。そのためプルミエ・ダンスールに配属されていたマニュエル・ルグリのエトワール指名も気まぐれで行われたのではない。
Meyer-Stabley原本:
Selon la version Béjart, à plusieurs reprises le chorégraphe suggère à l'administrateur de la danse et au président du conseil d'administration de l'Opéra, André Larquié, la nomination du danseur comme étoile et, pour que la chose n'ait pas l'air d'un caprice, celle également de Manuel Legris, un premier danseur distribué dans son ballet.
Telperion訳:
ベジャールの説によると、この振付家はバレエの管理担当者とオペラ座理事長アンドレ・ラルキエに、このダンサーをエトワールとして任命することを何度も提案した。そして、ことが気まぐれの雰囲気にならないようにするために、彼のバレエにキャスティングされたプルミエ・ダンスールであるマニュエル・ルグリの任命も。

エリック・ヴュ=アンへのモーリス・ベジャールの肩入れについて。そしてベジャールがヴュ=アンとルグリのエトワール任命を決行したことで、ベジャールとヌレエフが激突することになる。

ヴュ=アンの存在感が薄い新倉真由美訳

ルグリ任命はまだ提案段階

新倉真由美訳では、ベジャールが提案したのは「エトワール指名について」のみ。しかし原文を見ると、"le chorégraphe suggère"(この振付家は提案した)に続く目的語は、接続詞et(および)で結ばれた次の2つ。

la nomination du danseur comme étoile (エトワールとしてのこのダンサーの任命)
celle également de Manuel Legris(マニュエル・ルグリのそれもまた)

新倉訳ではベジャールはエトワール任命について何かを提案しながらルグリ任命を遂行したように見えるが、実際にはルグリの任命も提案しただけの段階。

ベジャールはヴュ=アンを名指しで推薦した

ベジャールの最初の提案が"la nomination du danseur"(このダンサーの任命)なのにも注意してほしい。danseurは一人の男性ダンサー。その前にduが付いていることから、danseurには定冠詞leが付いている。つまりこのダンサーは誰なのか特定された一人だと分かる。この記事で引用した部分の前に、ベジャールがオペラ座で公演する作品2つでヴュ=アンを起用したとある。だからこのダンサーがヴュ=アンなのは明らか。

新倉真由美の「エトワール指名について」だと、このエトワール指名がヴュ=アンのものだと分からない。特定のダンサーにかかわらない一般的な提案のように見える。

ルグリ任命はヴュ=アン任命を有利に運ぶため

原文ではルグリの任命を持ち出す前に次の語句がある。

pour que la chose n'ait pas l'air d'un caprice, (ことが気まぐれの雰囲気にならないようにするために)

"pour que ~(文)"とは「~のために」という目的をあらわす言葉。この場合はベジャールがルグリの任命を提案した目的だと見当が付く。

当時ベジャールがヴュ=アンに目をかけているのはあからさまだった。ヴュ=アンだけのエトワール任命を提案すると、ひいきのダンサーへの単なる執心扱いされ、まともに取り合われない危険があったのではないだろうか。そこでやはり期待が高いルグリの任命も提案することで、客観的に才能を評価したゆえの推薦だと受け入れてもらいやすくするというのが、ベジャールの意図だったのだろう。

新倉真由美が"pour que"(~のために)を無視したために、「気まぐれで行われたのではない」がベジャールの思惑というより実際の出来事に見えてしまう。先に書いた問題点との相乗効果もあり、ルグリの任命がベジャールにとって比較的軽いと新倉訳から読み取るのは難しい。「お気に入りのダンサーのエトワール指名を出し抜かれた」という触れ方といい、新倉真由美にとってこの事件でのヴュ=アンの存在感は軽いのではないかと疑わしくなる個所ではある。

ルグリもベジャールの新作に配役されていた

ルグリの説明である"un premier danseur distribué dans son ballet"にあるdistribuéは、バレエ関連の文では「配役された」という意味。公演におけるダンサーのキャスティングを説明するときにはおなじみの単語。だから"distribué dans son ballet"(彼のバレエで配役された)とは、彼、つまりベジャールのバレエでルグリが役を与えられていたという意味。

実際、ルグリはこのときベジャールの新作バレエにキャスティングされていた。なぜか新倉本では作品名が出ていないが、原本にはこの作品はArepo(『アレポ』)と明記してある。パリ・オペラ座の公演記録サイトMémOpéraには、Arepoが初演され、ベジャールがヴュ=アンとルグリをエトワールに任命した公演の記録も残っている。そこでArepoのDistribution(配役)の項を見ると、ヴュ=アンの名もルグリの名もあるのが分かる。

原著者のミス - ルグリはプルミエ・ダンスールではない

パリ・オペラ座バレエ好きには広く知られていることだろうが、ルグリの説明にある"premier danseur"とは、パリ・オペラ座バレエでエトワールに次ぐ階級。しかし当時のルグリはプルミエ・ダンスールのさらに一つ下の階級であるスジェだった。ルグリは後にヌレエフの意向でスジェから一気にエトワールに任命されるので、プルミエ・ダンスールだったことはない。

アンドレ・ラルキエの地位は新倉真由美の想定より恐らく高い

役職の訳語を見つけるのは私の最も苦手な分野。アンドレ・ラルキエの役職はやむを得ず日本語で書いたとはいえ、これが適訳という自信はない。ただ、気づいた点を一つだけ書いておきたい。

conseilは「顧問」という意味がある言葉だが、"conseil d'administration"の意味は「取締役会」。企業でないオペラ座でこの言葉をそのまま使うわけにはいかないが、最上位の意思決定機関のようには見える。ラルキエはそのprésident(議長、代表取締役など)。

エトワール任命を執り行うオペラ座総裁(directeur de l'Opéra)との違いは分からないが、ラルキエはオペラ座の最高責任者のような地位であり、顧問より権力の中枢に近いように思える。ベジャールがエトワール任命を提案する相手として選ぶのも理にかなう。

この記事は過去記事と他ブログの記事の統合版

この記事は、このブログの別記事と他ブログの記事と内容が重なっている。2つの記事が生まれた時系列は次のとおり。

  1. ここで取り上げた原文と新倉訳の一部について、私がブログ「三日月クラシック」のコメントに投稿
  2. 「三日月クラシック」の作者ミナモトさんに記事「『光と影』原文比較1」(http://lunarudy.blog41.fc2.com/blog-entry-613.html)からで私のコメントを取り上げていただく
  3. 私がこのブログで残りの部分を記事ベジャールが昇進させたいのは主にエリック・ヴュ=アンにする

このため、1つの原文についての指摘が2つのブログにまたがり、全容がつかみにくかった。しかも少し前に「三日月クラシック」が非公開になっているのに気づいたため(注記: 2017年になってから再公開)、読みやすさのために2つの記事の対象個所を1つにまとめた記事を新たに書いた。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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