伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ヴァネッサ・レッドグレーヴは勲章制に恩を着せていない

『バッキンガム宮殿の日常生活』P.69:
有名である私を呼びものにしただけなのです」
Meyer-Stabley原本:
Cela prouve l'attraction qu'ont les institutions sur moi. »
Telperion訳:
私が制度に魅力を感じているという証明になったのです」

女王による勲章授与を説明した部分から、女優ヴァネッサ・レッドグレーヴの談話。直前の文は「私は勲章を受け取ったことをむしろ恥じています(新倉本より)」。ちなみに、レッドグレーヴはCBE、つまり大英帝国勲章のコマンダーを受章した。

構文解析

この文は大きく2つに部分に分けられる。

主文
Cela prouve l'attraction (このことは魅力を証明します)
l'attraction(魅力)を修飾する関係節
qu'ont les institutions sur moi (制度が私に及ぼす)

後半の関係節について注意すべき点は2つある。

関係節の文の目的語はl'attraction(魅力)
関係代名詞qu'は、目的語を表す関係代名詞queの縮約形。つまり、先行詞l'attractionは関係節の文の目的語となる。
関係節の文の主語は"les institutions"(制度)
  • 先行詞l'attractionはqu'に続く文の主語ではないので、主語はqu'の後に存在する。
  • 文の述語は文中唯一の動詞であるont(原形はavoir)。活用形が三人称複数なので、主語は三人称複数の名詞だと分かる。
この2点を満たす名詞は"les institutions"。主語と述語の位置が逆だが、フランス語ではよくある倒置。

以上のことから、関係節の文の原形となる文は"les institutions ont l'attraction sur moi."(制度は私に及ぼす魅力を持っている)だと分かる。

文全体の直訳は、「このことは制度が持つ私に及ぼす魅力を証明します」。つまり、「このこと」はレッドグレーヴが制度に魅力を感じたという証になったということ。文脈から、「このこと」とはレッドグレーヴの受章に違いない。

批判対象は反体制に徹しきれなかった自分

私はレッドグレーヴの名をこの本で初めて知ったほどの不勉強。でも日本アマゾンにある『ヴァネッサ・レッドグレーヴ自伝』(高橋早苗訳、平凡社)のページには、次の紹介文が引用されている。

積極的な政治活動により西欧で最も過激と言われながら、また「英国」を最良に体現すると評される女性
彼女の政治闘争の物語でもある。

どうやらレッドグレーヴは反権力的な言動で知られているらしい。それなら「勲章を受けなければよかった」と述懐しても不思議はない。英国体制への批判を込めて勲章を辞退するほうが、レッドグレーヴにとっては胸を張れる行動なのだろう。

勲章制より有名だと言わんばかりの新倉版レッドグレーヴ

新倉真由美がattractionを「呼びもの」と訳したらしいのは想像が付く。仏和辞書にある訳語の一つなのだから。でも、「有名である」や「しただけなのです」を引き出せそうな語句は原文にはない。「呼びもの」という単語と文脈をもとに、勲章批判の文を創作したように思えてならない。

正直言って、レッドグレーヴが受章によって英国の勲章制に箔を付けるほど有名だとは思えない。なのにあんな自信過剰な発言をしたことにされてしまい、お気の毒。

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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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