伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

見落とされたロイヤル・ミューズ統率者の存在

『バッキンガム』P.139:
そこで働くスタッフたちは宮殿内で働く人たちとは違う格付けがあり、一般の廷臣よりはずっと上で王室の廷臣より下の階級に属している。管理するのはロイヤル・ミューズである。
Meyer-Stabley原本:
Le personnel qui y travaille a son propre ordre de préséances, différent de celui du palais ; il est placé sous les ordres de l'écuyer de la couronne, au rang bien supérieur à celui des écuyers ordinaires. Il dirige les Royal Mews.
Telperion訳:
そこで働く職員には、宮殿とは異なる独自の優先順位がある。普通の侍従よりずっと地位が高い冠侍従の指揮下にいる。彼がロイヤル・ミューズを率いる。

王室厩舎で働く人々について。

厩舎職員が一般廷臣より上という不思議さ

新倉真由美の文を読んで、私が変に思った個所は2つある。

1. 厩舎の職員が一般の廷臣より上?
廷臣に含まれる職の範囲はよく分からないが、宮殿で王族に対面しながら働く職員は当然含まれるはず。それより王家の馬や車を世話する職員のほうがずっと上とは信じがたい。
2. イギリスの廷臣はすべて王室の廷臣では?
新倉真由美によると、一般の廷臣と王室の廷臣は別もの。でも、王家に仕える廷臣はみな、王室の廷臣と呼べるのではないのか。

「王室の廷臣」とは王族に直接仕える廷臣、「一般の廷臣」とは王族とまったく会わない廷臣だとこじつけることもできるかも知れない。でも新倉真由美の文なのだから、さっさと原文を読んだほうが効率的。

厩舎職員はある一人の下につく

引用した部分のうち、最も大事なのはこの部分。新倉真由美の「王室の廷臣より下の階級に属している」に当たる。

il est placé sous les ordres de l'écuyer de la couronne,
彼は王冠の侍従の指揮下に置かれる。
  1. 主語ilは前の文の主語"Le personnel"(職員)、つまりロイヤル・ミューズの勤務員たち。これは新倉真由美の文でも同じ。
  2. "sous les ordres de ~"は「~の命令下に」。単なる下の階級でなく、同じ指揮系統における下を指す。
  3. 命令を下すのは、"sous les ordres de"に続く"l'écuyer de la couronne"(王冠の侍従)。

"l'écuyer de la couronne"は新倉真由美の「王室の廷臣」に相当する。Meyer-Stableyと新倉真由美の語句を見比べると、注意を引く点が2つある。

  1. 「王室の廷臣」は何人もいるように見えるが、"l'écuyer de la couronne"は単数形。
  2. Meyer-Stableyは「王室の」という意味では形容詞royalを多用してきた。でも"de la couronne"(王冠の)はまだこの近辺でしか見かけない。当然のようにroyalと同一視することはできない。

原文から想像できる"l'écuyer de la couronne"とは、厩舎職員の上に立つただ一人の人物。恐らく"l'écuyer de la couronne"とは、厩舎の最高統率者の職名だろう。定着した日本語訳がありそうに思えないので、私は独断で「冠侍従」と訳した。

実在するCrown Equerry

英国王室サイトにあるウィリアム王子とキャサリン妃が結婚式の日に乗る馬車の説明ページに、こんな文がある。

The Royal Mews is part of the Lord Chamberlain’s Office and is run by the Crown Equerry.
ロイヤル・ミューズは宮内長官の管轄内であり、冠侍従に管理される。(Telperion訳)

間違いなく、"the Crown Equerry"は"l'écuyer de la couronne"に相当する英語。王室サイトよりは信頼性が下とはいえ、英語wikipediaにも項がある

厩舎統率者の説明はさらに続く

"l'écuyer de la couronne,"には"au rang bien supérieur à celui des écuyers ordinaires"(普通のécuyerの地位よりずっと高い地位の)が続く。新倉真由美が「一般の廷臣よりはずっと上で」とした部分。実際は誰が誰の上にいるのだろうか。

地位が下なのは普通の侍従

新倉真由美は「l'écuyer de la couronne=王室の廷臣」という訳語にこだわったために"écuyers ordinaires"も「普通の廷臣」にした。しかしMeyer-Stabley本でécuyerとは、王族に直接仕える、侍女の男性版のような職業。新倉真由美は終始「侍従」と訳してきた。臣下一般を指す「廷臣」よりずっと範囲が狭い。ここに限って「一般の廷臣」は不自然。

地位が上なのは恐らく冠侍従

文法だけを考えるなら、「普通の侍従よりずっと高い地位の」は、厩舎で働く職員全般を指すことも多分できる。しかし、先ほど書いたように、厩舎職員の地位がそこまで上とは、私には信じられない。

しかし一般の侍従は、いくら王族に近い存在でも、一部署の責任者ではない。厩舎の職員を統括する冠侍従が侍従より上だというなら、私にも納得できる。肩書に"de la couronne"が付くのは伊達ではない。

最後の文もロイヤル・ミューズ責任者についての文

最後の文"Il dirige les Royal Mews."で、初めて王室厩舎の名、ロイヤル・ミューズが出る。文の主語il、つまりロイヤル・ミューズを率いるのは、むろん"l'écuyer de la couronne"。でも新倉真由美は責任者一人の存在を認識していないため、「管理するのはロイヤル・ミューズである」も一人についての文に見えない。スタッフたちが皆で手分けしてロイヤル・ミューズを管理しているかのよう。

他にも「王室の廷臣」の例はある

"le écuyer de la couronne"はこの近くで何回か話題になっているが、新倉真由美はもちろん「王室の廷臣」で押し通している。2つ例を挙げる。

『バッキンガム』P.139:
王室の廷臣は入り口付近に大変美しい家を持っている。
『バッキンガム』P.141:
王室の廷臣(=侍従)を除いて、宮殿で食事をする職員はほとんどいない。

問題の引用では王室の廷臣と一般の廷臣は別物扱いだったが、2番目の例では王室の廷臣を侍従の別名扱いしている。新倉真由美の見解では、一般の廷臣(普通のécuyers)は侍従(écuyers)ではないらしい。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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