伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

礼儀作法の重圧ばかりを書き立てるつもりはない原著者

『バッキンガム』P.196:
もし一般人がこのように格式ばった中で生活するとしたら、恐らく窒息してしまうだろう。何も大げさに言っているのではない。
Meyer-Stabley原本:
À vivre dans un tel cérémonial, le commun des mortels aurait quelque peu l'impression d'étouffer. Il ne faut cependant rien exagérer.
Telperion訳:
このような儀礼の中で暮らすことに対して、一般人の大多数は息苦しい印象を少し持つだろう。しかし何事も誇張してはならない。

節「礼儀の問題」(原題: Questions d'étiquette)の冒頭。前の節では、エリザベス二世の戴冠式や、チャールズ皇太子のプリンス・オブ・ウェールズとしての戴冠式の厳粛な様子を描写していた。

原本が新倉本と違う個所

述べられる息苦しさの程度は弱い

最初の文の述語は、イディオム"avoir l'impression de ~"(~という印象を持つ)を使っている。de(ここではその縮約形d')に続くétouffer(窒息する、息苦しくなる)とは、王族の暮らしに対して一般人が持つ印象。「窒息する」に比べて「窒息するという印象を持つ」は差し迫った感じではない。それに原文には"quelque peu"(少し)とあるから、なおさら。

これは私の憶測だが、私はこの文を「儀式づくめで暮らすことになった一般人の反応」でなく、「儀式づくめの暮らしを外部から見る一般人の心情」だと見なしたい。もしそんな暮らしを強いられて息苦しくなるなら、「息苦しい印象を持つだろう」(aurait l'impression d'étouffer)より「息苦しくなるだろう」(étoufferait)のほうが似つかわしいと思うので。

息苦しいという印象は反論される

二番目の文のポイントは2つ。

  1. "Il ne faut ~(動詞の原形)"は「~してはならない」。
  2. cependant(しかし)が入っている。

「しかし誇張してはならない」とは前の文にブレーキをかける文。それがなぜか新倉真由美の文では、前の文をさらに強調する内容になっている。

息苦しさ一辺倒でないのは節全体にわたる

実際、上の部分の続きを読むと、Meyer-Stableyが王室を礼儀でがんじがらめと言い続ける気がないのがよく分かる。

『バッキンガム』P.196:
ヴィクトリア時代の礼儀作法については多くの誤解がある。ヴィクトリアは礼儀作法の奴隷でなく、偶然に聴こえてきたメンデルスゾーンの曲を口ずさむような、気取らない素直な女性だった。美しい虹を見せようとして、突然リトルトン夫人の部屋に入ってくることもあった。

つまり、ヴィクトリア朝は礼儀にうるさいイメージがあるが、実際には心のままに行動することもできたということ。Meyer-Stableyがここでヴィクトリア女王の逸話を持ち出したのは、現在の王室についても、「息苦しいことばかりではない、王族が人間的に振る舞う余地はたくさんある」と主張するつもりだからだろう。

実際、この後も節「礼儀の問題」は、節冒頭の流れを繰り返す。

  1. まず、王室の細かい作法を挙げる。女王の腕を取ってはいけないとか、お辞儀の仕方とか。
  2. 次に、王族の決まりにとらわれない行動を挙げる。チャールズ皇太子が庶民の家をサプライズ訪問したとか、エディンバラ公フィリップが買い物客に話しかけてうるさがられたとか。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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