伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

王冠の真珠をネックレスに使い回し?

『バッキンガム』P.193:
戴冠式の後には祝宴が催された。エリザベスは王冠についていた真珠をプラチナの芯から外し、ネックレスとして使えるようにした、という話を聞いて微笑んだ。
Meyer-Stabley原本:
Ce n'est que dans les réceptions qui suivent que la cour sort ses diadèmes. Élisabeth sourit quand on lui rapporta que les plus hautes familles d'Angleterre avaient fait monter leurs diadèmes de façon que les perles puissent être détachées de leur armature de platine et portées en collier dans la vie mondaine courante.
Telperion訳:
次に行われた歓待の場でのみ、廷臣たちがティアラを取り出した。イギリス最高の名門の数々が、ティアラを組み立てさせるとき、真珠をプラチナの台座から取り外して上流階級の日常生活でネックレスにして身につけられるようにしたとエリザベスは聞き、微笑んだ。

エリザベス二世の戴冠式の説明より。

王冠から真珠を外すという珍事

王家の財宝のなかでも特に神聖なはずの王冠から宝石を外すのには驚いた。そんな無理をせずとも、ネックレス用の宝石くらい、いくらでも調達できそうなのに。Meyer-Stableyはすぐ前の章で、英国王室の宝飾品のぜいたくさを吹聴していたのだから。

王冠の真珠をネックレスに転用するのを女王が後から知ったのもとんでもない。女王の周りの職員は女王に無断で真珠を王冠から外すのか? それを聞いて微笑む女王も太っ腹すぎる。

主題は臣下の髪飾り

「真珠を王冠から外して」の原文をさっそく読みたいところだが、その前の文を先に読むほうが状況がよく分かる。

最初の文の構文解析

引用した最初の文の基本となる文は次のとおり。

La cour sort ses diadèmes dans les réceptions qui suivent.
(続く接待で、廷臣たちがティアラを取り出した。)

強調構文"Ce est A que B"(BなのはAである)を使い、上の文の"dans les réceptions qui suivent"(続く接待で)を強調した文は次のとおり。

Ce est dans les réceptions qui suivent que la cour sort ses diadèmes.
(廷臣たちがティアラを取り出したのは、続く接待でだった。)

さらに限定の意味のイディオム"ne A que B"(BだけがAである)を加えると、Meyer-Stableyが書いた文の出来上がり。

Ce n'est que dans les réceptions qui suivent que la cour sort ses diadèmes.
(廷臣たちがティアラを取り出したのは、続く祝宴でだけだった。)

新倉真由美は原文の"les réceptions"(接待)とsuivent(続く)しか訳していない。

キーワード1: courは廷臣

女王がいる場でdiadèmeを取り出すのだから、courは人。仏和辞書にある意味としては「宮廷の人々、廷臣たち」といった意味が最もふさわしい。

キーワード2: diadèmeはアクセサリー

ラルース仏語辞典を初めとして、いくつかの辞書で最初に「王冠」という意味が載っている。でもそれだけに限らない。

『プログレッシブ仏和辞典第2版』より
(女性の)王冠型髪飾り, ダイアデム;
ラルース仏和辞典より
Bijou souvent rehaussé de pierreries, qui enserre le haut du front.
宝石で飾られることが多い、額の上部を囲む装身具。(Telperion訳)

次の理由で、この場合のdiadèmeは王冠ではない。

  1. diadèmesの前に所有代名詞ses(その)が付いている。この場合、所有者は直前に出ている"la cour"(廷臣たち)。
  2. diadèmesは戴冠式後のパーティで取り出された。つまり戴冠式の間はしまわれていた。

Meyer-Stableyは強調構文と限定構文を重ねて、パーティでだけ髪飾りが取り出された、つまりその前の戴冠式で髪飾りはしまわれていたと強調している。戴冠式中はしまわれていたのは、まだ無冠の女王をさしおいて、臣下が冠を付けるわけにはいかないからだと想像が付く。

真珠は貴族のもの

やっと「真珠を王冠から外し」の原文を読む。この中で新倉真由美の「王冠」に当たるのはdiadèmes。前の文でdiadèmeが臣下の髪飾りなのだから、この文も同じだと推測できる。しかしそれ以外にも、diadèmeが臣下の持ち物らしいと匂わせる要素はある。

話の主語は貴族たち
エリザベスが聴いた話は、"les plus hautes"から文末まで。この節の主語、つまりdiadèmeの真珠を転用可能にさせたのは、"les plus hautes familles d'Angleterre"(イギリスで最も高位の家々)。Meyer-Stableyは王家を常々"la famille royale"と単数形で書いているのに、ここでのfamillesは複数形。並ぶものがない単独の王家より、複数の大貴族の家を指しているように思える。厳密には「王家に次いで高位の家々」なのだろうが、王家とそれらの貴族たちが階層上位を占めるのは確かなのだから、「最も格上の家々」でもおかしくはない。
diadèmeは家々のもの
diadèmesにはleur(彼らの)が付いている。彼らとはこの節の主語、「イギリスで最も高位の一族たち」。

真珠の転用が貴族の話なら、エリザベスが話を聞いて微笑んだのもうなずける。臣下が宝石をどうやりくりしようと、女王にとっては他人事なのだから。

王冠を指す単語は別にある

王家の財宝を説明した第8章に、最大の宝飾品たる王冠もある。そこで王冠はcouronneと呼ばれている。戴冠のフランス語もcouronneの派生語couronnement。この本に関する限り、王位のシンボルたる王冠はcouronneと呼ばれているとみてよさそう。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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