伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

イギリス皇太子とチェスター伯は同一人物

『バッキンガム』P.147:
皇太子はある日飛行機に乗るとき〈チャーリー・チェスター〉という偽名を使った。それは実在のチェスター伯爵の名前で、彼は完璧にその振りをした。
Meyer-Stabley原本:
Le prince de Galles eut un jour recours au pseudonyme de « Charlie Chester "» pour prendre l'avion : un nom auquel il peut parfaitement prétendre puisqu'il est aussi comte de Chester.
Telperion訳:
皇太子はある日、飛行機に乗るために「チャーリー・チェスター」という変名に頼った。非の打ちどころなく自分の名だと要求できる名前だ。なぜなら彼はチェスター伯でもあるのだから。

英国の王族が旅行の時に変名を使うこともあるという一例。

チャールズと強い関係らしいチェスターという名

チャールズ皇太子が使った「チャーリー・チェスター」という名には、まず次の説明が続く。

un nom auquel il peut parfaitement prétendre (彼が完全に要求できる名前)

auquelは関係代名詞。先行詞である"un nom"(名前)とは次のような名前だということを説明している。

Il peut parfaitement prétendre à un nom. (彼はある名前を完全に要求できる)

"prétendre à ~(名詞)"は「~を切望する、~を(当然の権利として)要求する」と言う意味。なんだか、チャーリー・チェスターとは単なるその場しのぎの名ではなく、チャールズが名乗る正当な理由があるかのような言い方。

恐らく新倉真由美はprétendreから英語のpretend(ふりをする)を連想したのだろう。しかしフランス語のprétendreは「主張する」という意味で、虚偽だと決めつける言葉ではないらしい。代名動詞"se prétendre"なら「自称する」と訳してよいが。

チェスターはチャールズの称号の一つ

チャールズ皇太子がチャーリー・チェスターと名乗っても良いような言い方になった理由は、すぐさま説明される。

puisqu'il est aussi comte de Chester (彼はチェスター伯爵でもあるから)
  • 節の先頭がpuisqu'(~だから)なので、前の文の理由を説明していると分かる。
  • 節の主語ilは男性名詞を表す代名詞。チャールズがチャーリー・チェスターという名を要求できる理由を述べているのだから、ilはチャールズのことだと推察できる。

チャーリーがチャールズの愛称だということはよく知られている。そしてチャールズ皇太子はチェスター伯という称号を持つのだから、チャーリー・チェスターは皇太子と無縁な名ではないというのが、Meyer-Stableyの言い分なのだろう。

新倉真由美はilをCharlie Chesterという変名のことだと思ったらしい。でも「チャーリー・チェスターはチェスター伯爵でもあるから」では、チャールズがチェスターを名乗る理由にならない。そこで故意か無自覚か、新倉真由美は原文を捻じ曲げ、自分の解釈をもっともらしく見せている。

  • puisque(~だから)を無視
  • aussi(~もまた)を「実在の」に置き換え

チェスター伯という称号は同じ本に書いてある

この『バッキンガム宮殿での日常生活』の第15章「プリンス・オブ・ウェールズ」の先頭ページに、チャールズのいろいろな称号が列挙してあり、中にこれが含まれている。

『バッキンガム』P.186:
チェスター伯爵コーンウォール及びロスシイ公爵(原文ママ)
Meyer-Stabley原本:
comte de Chester, duc de Cornouailles et de Rothesay,

これを読んでいれば、「チャールズはチェスター伯爵の振りをした」と書けるはずがないのだが。

おまけ - 皇太子がチェスター伯なのは代々の伝統

最近たまたま目を通したエリザベス一世の伝記『女王エリザベス(上)波乱の青春』(クリストファー・ヒバート著、山本史郎訳、原書房)のP.36で、ヘンリー八世の長男(後のエドワード六世)が洗礼式で「皇太子にしてコーンウォール公ならびにチェスター伯」と呼ばれていた。チャールズ皇太子と同じなので好奇心をおこしてちょっとだけネットで調べたところ、イングランドの皇太子はばら戦争時代から伝統的に、チェスター伯(Earl of Chester)を兼ねてきたらしい。あいにく英国王室サイトでは記述が見つからず、英語wikipediaの"Prince of Wales"の項や日本語wikipediaの「チェスター伯」の項に頼った。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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