伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

皇太后論の自由すぎる創作

『バッキンガム』P.239:
アリソン・ワットが皇太后を、王族の肩書がなくても、きらめく宝石と果樹園のような帽子があれば、君主国で最も人気のある人物の一人だと言ってのけたのだ!
Meyer-Stabley原本:
Alison Watt avait osé représenter l'une des personnalités les plus populaires de la monarchie sans ses attributs royaux, mais avec des joyaux étincelants et des chapeaux ressemblant à un verger !
Telperion訳:
アリソン・ワットは大胆にも、君主国で最も人気のある人物の一人を、王家の属性でなく、きらめく宝石と果樹園に似た帽子で表現していたのだ!

問題の文の周辺

この文は王族の肖像作成をテーマにした章「肖像画の中で」の節「理想主義と現実主義のはざまで」の最初のほうにある。この節の先頭と前の節の最後で、王族を理想化するか、それとも一般人と変わらないようにするかという論点を取り上げている。そのあたりの事情は記事「絵画のリアリズムが容姿叩きに成り下がる」に書いた。

構文解析

原文を大きく分けると、次のようになる。

主語・述語
Alision Watt avait osé représenter (アリソン・ワットは大胆にも表現していた)
目的語
l'une des personnalités les plus populaires de la monarchie (君主国で最も人気がある人物の一人)
修飾句1
sans ses attributs royaux (王室の属性を用いず)
修飾句2
mais avec des joyaux étincelants et des chapeaux ressemblant à un verger (しかし輝く宝石と果樹園に似た帽子を用いて)

直前の文で皇太后が触れられていることから、目的語である「君主国で最も人気がある一人」とは皇太后のことだと分かる。

使わなかった手段、使った手段

この文の翻訳で最も難しいのは、2つの修飾句の先頭にある前置詞sansとavecの解釈。英語のwithoutとwithに相当し、互いに反対の意味を持つ。文脈に応じていろいろな訳語がある。

私が「~を用いず」「~を用いて」を採用したのは、主文「アリソン・ワットが皇太后を表現した」につながりやすいから。つまりワットは表現手段として、王室の属性ではなく、宝石と帽子を使ったということになる。王族の肖像の話が続いているという文脈を考えると、アリソン・ワットは皇太后を描くとき、王室らしいものではなく、宝石と帽子を目立たせたと想像できる。

2つの修飾句がreprésenter(表現する)でなく皇太后につながると解釈し、「王室の属性を持たず、宝石と帽子を持つ皇太后をアリソン・ワットが表現した」と訳すのも、文法的にはおかしくない。でも肖像の話をしているのだから、結局は宝石と帽子を身につけた皇太后の絵が描かれたということになる。

「皇太后を表現する」とは肖像画を描くことだというのは私の推測。推測の信頼性を上げるには、Meyer-Stableyの文を読む以外の調査が必要になる。それについては記事「アリソン・ワットが描いた皇太后は原著者の説明と違う」に譲りたい。

新倉真由美の文法解釈の問題点

新倉真由美はreprésenter(表現する)を人物論評のことだと思っている。それだけならむげには却下できない。しかし新倉真由美は原文の重大な部分を変質させている。

1. 新しい目的語「皇太后を」の出現

次の英文を見比べて欲しい。

  1. She called her sister. (彼女は妹を呼んだ)
  2. She called me her sister. (彼女は私を妹と呼んだ)

1番目の文の目的語は"her sister"、2番目の文の目的語はme。meが目的語の場所に入った影響は小さくない。

新倉真由美がしたことは、1番目の文を「彼女は私を妹と呼んだ」と訳すのに等しい。もし原文が「皇太后を~と表現した」という意味なら、「皇太后を」を代名詞laに置き換えてでも、必ず文に書くのがフランス語の決まり。原文に「皇太后を」に当たる単語がない以上、目的語は「人気者の一人」。勝手に「皇太后を」を付け足すことはできない。

それにreprésenterを『プログレッシブ仏和辞典第2版』で引いた限り、この動詞を「~を…だと言う」という意味で使えるのかも疑わしい。

2. 叙述文が仮定文に変貌

新倉真由美は「王族の肩書がない」「宝石と帽子がある」を仮定、「人気者の一人」を結果のように扱った。でも、新倉真由美が「~であれば」という表現を使ったのと同様、フランス語にも仮定だということを示す語句がいろいろある。

  • si + 仮定を述べる文
  • 述語の時制が条件法
  • comme si + 直説法半過去の文

原文には仮定を表す語句が一切ない。なのに仮定文として訳すのは無理があり過ぎる。

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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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