伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

絵画のリアリズムが容姿叩きに成り下がる

『バッキンガム』P.239:
真に根本的な問題は、王制の神秘的な面を保ちあらゆる状況で理想化するべきか、逆に、真実に目を向け、ロイヤルファミリーのメンバーを〈一般の人々〉として見なすべきかということである。最近では時々辛辣な表現で侮辱され、ごま塩頭とか、重責のためのしかめっ面と言われることもある。
Meyer-Stabley原本:
La véritable question de fond est la suivante : s'agit-il en toute circonstance d'idéaliser,de conserver le côte sacré de la royauté, ou faut-il au contraire privilégier la vérité et faire des membres de la famille royale des « gens comme les autres », atteints par les premiers outrages des ans, quelques rides d'expression, une chevelure poivre et sel, un air plus sévère que souriant qu'explique l'accumulation des responsabilités ?
Telperion訳:
根底にある真の問題は次のことである。どのような場合も理想化し、王制の神聖な面を維持するべきなのか、それとも反対に真実を優先し、王家の一員を「他と同じような人々」にする必要があるのか。つまり、年月の凌辱、表情の若干のしわが現れ、ごま塩頭になり、責任を負い続けたために微笑みより深刻な雰囲気が生まれたようにするのか。

第12章「肖像画の中で」(フランス語は"En portrait")の節「理想主義と現実主義のはざまで」(フランス語は"Entre idéalisme et réalisme")の先頭の文。章の名から想像できるとおり、この章は王族の肖像作成を中心に据えている。

前の節で出たモデルを美化しない肖像画

今回の文を理解するには、その周辺に書かれた内容を知ることが欠かせない。だから本文の解釈を始める前に、その前に書かれたことを説明しておく。

初めに書いたとおり、問題の文は新しい節の冒頭。その前の節の最後で、ブライアン・オーガン(Bryan Organ)が描いたチャールズ皇太子とダイアナ妃の肖像画が話題になっている。新倉本の説明を読んですら、絵のチャールズが君主然としていないことは何となく分かる。そして節の結びの文では、「君主が一般人のように見なされるのは不幸なこと」という意味の感想が引用されている。

問題の肖像画は多分次の2つ。良くも悪くも、高貴さより人間臭さが前面に出た絵。賛否両論だったと新倉本に書いてあるのもうなずける。

本文を読む前から見当が付く理想主義と現実主義の内容

オーガンの肖像画のくだりを読んでいれば、次の節の題「理想主義と現実主義のはざまで」を読んだ時点で、2つの主義が何を指すかは察しが付く。

理想主義
王族は特別な人間に見えるように描くべきという考え。オーガンの絵に対する「君主が一般人のように見なされるのは不幸なこと」という批判はこれに基づく。
現実主義
たとえ王族でも普通の人間と同じように描くべきという考え。オーガンはこちらの陣営。

あらためて対比される絵画制作の理想主義と現実主義

ようやく問題の文の説明に移る。提示される疑問は、原文ではセミコロンの後から文末まで。長いので2つに分けて説明する。

1. 主文となる疑問文

s'agit-il en toute circonstance d'idéaliser,de conserver le côte sacré de la royauté, ou faut-il au contraire privilégier la vérité et faire des membres de la famille royale des « gens comme les autres » ?

(どのような場合も理想化し、王制の神聖な面を維持するべきなのか、それとも反対に真実を優先し、王家の一員を「他と同じような人々」にする必要があるのか。)

節の題になった理想主義と現実主義について説明し、問題を提起している。先ほど述べたとおり、Meyer-Stableyがここで言う理想主義と現実主義とは、どちらも画家が王族の絵を描くときの姿勢だと考えてよい。

2. 「他と同じような人々」の特徴

atteints par les premiers outrages des ans, quelques rides d'expression, une chevelure poivre et sel, un air plus sévère que souriant qu'explique l'accumulation des responsabilités

(年月の凌辱、表情の若干のしわ、ごま塩髪、責任を負い続けたために微笑みより深刻な雰囲気にやって来られ)

疑問文最後の語句« gens comme les autres »(他と同じような人々)を修飾するのが上の部分。先頭にあるatteintsは、「~に到達される、傷つけられる、追いつかれる」などという訳語があり、訳しにくい。しかしとにかく、何かが一般人、そして一般人と同じ扱いの王族のもとに来たことは分かる。前置詞parの後に続くのが来たものだが、これがやたらと多い。

  • les premiers outrages des ans (年の最初の凌辱)
  • quelques rides d'expression (表情のしわがいくつか)
  • une chevelure poivre et sel (白いものが混じった髪)
  • un air plus sévère que souriant qu'explique l'accumulation des responsabilités (責任の累積によって説明される、微笑むよりもっと深刻な雰囲気)

これらに押し掛けられた「他と同じような人々」とは、年相応に老けた外見の人だと分かる。「王家の一員を他の人と同じようにする」現実主義では、しわや白髪が遠慮なく描かれるということになる。

新倉真由美が創作した悪口

最初の疑問文は、だいたいは新倉真由美のように訳しても問題ない。もっとも、sacré(神聖な)を「神秘的な」と訳せるのか疑問だが。でもその後がいけない。リアルな絵画が扱う身体的特徴が、王族に向けられた嘲笑と化した。

  • "outrages des ans(年の侮辱)が単なる「侮辱」に。これでは人からの侮辱にしか見えない。
  • "quelques rides d'expression"(表情のいくつかのしわ)を「時々辛辣な表現で」としたらしい。expressionに「表現」という訳語はあっても、「辛辣に」と訳せる単語は見当たらない。
  • "plus sévère que souriant"(微笑んでいるよりも深刻な)に比べると、「しかめっ面」に込められた悪意はけた外れ。
  • 最後が「と言われている」で終わる。原文のどこにそう訳せる個所があるのか。

まるで画家の放言か三流メディアの報道のような言い方。こうなると、最初の「理想化すべきか、現実を重視すべきか」という問いが画家の創作姿勢についてのことだと新倉真由美が理解しているのかも怪しい。もし理解していたとしても、画家がリアリズムを重視するのは王室を貶めるためだと思わなければ、あんな文は書けないだろう。

更新履歴

2015/2/4
記事公開
2015/2/5
はるかに詳細な説明に書き換え、公開日付をこの日に変更

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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