伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

レバノンでなくイランの人質事件

国が違う別の人質事件

『バッキンガム宮殿での日常生活』P.80に出てくる、サッチャーが首相当時関わったとされる「レバノン人質事件」。原書では"l'affaire des otages du Liban"。新倉真由美ならずとも「レバノン人質事件」に似た訳語を当てるでしょう。

しかしレバノン人質事件とは何かをgoogle検索で調べたところ、どうもそれらしき事件がヒットしません。かわりに浮上したのがこれでした。

英語のほうがはるかに詳細ですが、概要を知るなら日本語で十分でしょう。サッチャー首相時代初期の1980年4月30日に発生し、5月5日にSAS突入で解決した占拠事件です。

最寄りの図書館にあった『サッチャー回顧録[上] ダウニング街の日々』(マーガレット・サッチャー著、石塚雅彦訳、日本経済新聞社)P.117-119にも記述があります。この上下巻の目次には小見出しまで載っていますが、レバノン人質事件があれば扱いそうな見出しは、駐英イラン大使館の事件が含まれる「中東危機」だけ。「レバノン人質事件」は本当は「イラン人質事件」なのでしょう。

証言を引用する姿勢の甘さ

「レバノン人質事件」は、チャールズ皇太子とサッチャーの関係が良くなかったという文で取り上げられます。どこぞの関係者が「皇太子は事件でのサッチャーの対応に批判的だった」と語り、それをMeyer-Stableyがどこぞの文献で見つけて本に取り入れたという形でしょう。

当時のチャールズがレバノンとイランを間違えたとは思えません。Meyer-Stableyがイランでなくレバノンを挙げた理由は、次のどちらかのはず。

  • 関係者がチャールズの言葉をうろ覚えのため国名を間違えて、一次文献著者もMeyer-Stableyも間違いをそのまま本に書いた
  • Meyer-Stableyは関係者証言をいい加減に読み、国名を間違えた

関係者のうろ覚えはいかにもありそうなことです。『ヌレエフとの密なる時』原著者のプティだって、「母に会いにソ連に行ったヌレエフがキーロフ劇場を再び訪れた」などと書いていますから。一次情報源の言葉をそのまま引用するのは、何の断りもなく修正するよりは適切な対処と思います。

でも、あやふやな昔話を聞いた王室本著者がそのあやふやさに気づかないことは肯定できません。内輪話は嘘や真実が入り乱れているもの。耳にしたことをすべて無批判に受け入れるのではなく、信頼できる証言かどうかを吟味しなければ、著書が根拠薄弱でセンセーショナルに流れるだけではないですか?せめて「1980年の駐英イラン大使館の事件と思われる」と注をつけたくなるくらいの違和感は持ってほしかったのですが。

一次文献で「イラン人質事件」だったのをMeyer-Stableyが読み間違えたとしたら、もう問題外。本に書きたいことは丁寧に読んでくれと言いたい。実際、『Noureev』での「ダニエル・エズラロー振付In the middle, somewhat elevated」「魔法の詩」などなどを思うと、こちらの可能性のほうが高いですね。

おまけ - すべての交渉を拒否したとは限らない?

出来事の捉え方を正しい、間違いと区分けするのは難しいものです。でも、先ほど書いた『サッチャー回顧録[上]』で占拠事件のくだりを読んでいたら、次のくだりをMeyer-Stabley(または一次情報源の人物)の論評らしい「すべての交渉を拒否した」と対比させたくなりました。サッチャーと当時の内務大臣ウィリー・ホワイトローが合意した対処方針です。

すなわち、まず辛抱づよく交渉を試みる。しかし、もし人質の誰かが傷つくようなことがあれば、大使館を攻撃することを考える。そして人質が一人でも殺されたら、空軍特殊部隊(SAS)を必ず送り込むことにする。作戦にはある程度の弾力性がなくてはならなかった。しかし、はじめから問題外だったのは、人質と一緒であるにせよそうでないにせよ、テロリストたちを逃すことだった。(P.118)

実際、SASが突入したのは事件発生5日後、人質の一人が殺されてから。サッチャーはテロリストの要求を聞く気はなくても、武力なしで解決するための交渉は否定していません。

この事件をMeyer-Stableyがどう評価しようと、王室本の良し悪しにはほとんど関わらないでしょう。でも、「もしかしてMeyer-StableyはサッチャーがただちにSASを突入させたと思っているのかな」と意地悪く考えてしまいます。

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

カテゴリ
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
タグ

マーゴ・フォンテーン エリック・ブルーン ノートルダム・ド・パリ パトリック・デュポン マリア・トールチーフ ミック・ジャガー 

全記事表示リンク

全ての記事を表示する