伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

サッチャー首相時代にフランスでアルゼンチンが戦争?

『バッキンガム』P.80:
彼女がアルゼンチンに手を差し伸べなかったサン・マロの戦いとすべての交渉を拒否したレバノンの人質事件後、鉄の女に苛立った女王の長男は、恵まれない国民たちに同情し、若い失業者やホームレス、一般的にイギリス社会の売れ残りと言われている人たちと積極的にコンタクトを取るようになった。
Meyer-Stabley原本:
Notamment après la guerre des Malouines, où elle n'avait pas daigné tendre la main à l'Argentine, et dans l'affaire des otages du Liban, où elle s'obstinait à refuser toute négociation. Plus irritant pour la Dame de fer, le fils aîné de la reine manifestait la plus grande sympathier pour la poulation déshéritée de son royaume et n'hésitait pas à multiplier les contacts avec les jeunes chômeurs, les sans-abri et, en général, tous les laissés-pour-compte de la société britannique.
Telperion訳:
特に、彼女がアルゼンチンに手を差し出してやらなかったフォークランド紛争後、そして彼女がいかなる交渉も頑として拒絶したレバノン人質事件のときである。鉄の女にとってさらに苛立たしいことに、女王の長男は王国の恵まれない国民に最大限の同情を示し、ためらうことなく若い失業者やホームレス、そして一般に英国社会の落後者すべてと接触を重ねた。

チャールズ皇太子と首相時代のサッチャーの関係を述べた段落より。皇太子が「マーガレット・サッチャーの病的ともいえるほど妥協しない性格(新倉本より)」を良く思わなかったという意味の文に続く。

サン・マロからフォークランドは連想できない

勘のいい読者なら、「戦い」「アルゼンチン」「サッチャーの任期中」といった手掛かりから、「サン・マロの戦い」とは何かを推察するかも知れない。私はそこまで頭が回らず、まずサン・マロを律儀に調べ、フランスの町Saint-Maloだと知った。おかげで「なんでサッチャー首相時代(1979-1990)にフランス本土で戦争が起きるんだ」「アルゼンチンとサン・マロに何の関係が」と頭を抱えてしまった。その後、さっき書いたようなキーワードから、フォークランド紛争を思い出したが。

仏和辞書にフォークランドの項はないだろうが、今は"guerre des Malouines"でgoogle検索すれば、説明ページがいくつもヒットする。フランス語wikipediaの"Guerre des Malouines"記事には、"Falklands War en anglais"(英語ではFalklands War)としっかり書いてある。

仏和辞書にはMalouin(e)が「サン=マロの住民」とある。それをもとに"la guerre des Malouines"を「サン・マロの戦い」と訳したくなっても不思議はない。でも「サン・マロの戦い」はあまりにもありえないし、フォークランド紛争はあまりにも有名。仏和辞書の限界という事情はあるにせよ、ここは見過ごせない。

紛争や人質事件はサッチャーの妥協知らずの例

引用した最初の原文は、主語と述語をそなえた厳密な文ではなく、「フォークランド紛争後と人質事件のとき特に」だけで終わっている。文の一部となるべき語句が、あまりの長さに本文から切り離されたのだろう。

新倉真由美はこの語句を、社会的弱者に優しい皇太子に関する後の文につながると独り決めした。あるいはピリオドをコンマと見間違えたのかも知れない。でも原文が前と後の文のどちらに付くのかは断言できない。だから前後どちらからも切り離して訳すほうが無難。

私としては、「フォークランド紛争後と人質事件のとき特に」は前の文、「皇太子はサッチャーの妥協知らずの性格に好感を持っていない」につながっていると思う。どちらもサッチャーの妥協知らずが発揮された例だから、「あんなに強硬な態度は気に入らない」というリアクションを誘ったかも知れない。「レバノンの人質事件」については別記事で説明しなければならないが。

相手に苛立ったのはチャールズでなくサッチャー

原文の第2文は、次の分詞構文で始まる。

Plus irritant pour la Dame de fer,

次の2点から、相手を苛立たせるのはチャールズ皇太子だと分かる。皇太子がサッチャーに苛立ったなら、"irritant pour"でなく"irrité par"のはず。

  • irritantは動詞irriter(苛立たせる)の現在分詞なので能動の意味を持つ
  • 分詞構文の主語は主文の主語"le fils aîné de la reine"(女王の長男)と同じ

"la Dame de fer"(鉄の女性)"の前にある前置詞pourは、ここでは「~にとって」という意味でないと、その前の"Plus irritant"(もっといらいらさせる)につながらない。つまり、サッチャーはチャールズ皇太子にいらついた側。"

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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