伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

大外れにされたチャールズ皇太子再婚時期の予測

『バッキンガム』P.272:
ソフィはとめどなく話し続け、女王のことを気取って〈親愛なるあの老婦人〉と呼び、チャールズ皇太子と並べてすさまじい勢いでこき下ろした。そして「彼の再婚は、いつかあの老婦人がこの世からいなくなってからになるでしょう…」と言った。
Meyer-Stabley原本:
Mais Sophie, une fois lancée, ne s'arrête pas là, et commet l'irréparable en s'attaquant... à la reine elle-même, qu'elle appelle cavalièrement « cette chère vieille dame », et aussi au prince Charles : « Son remariage se fera un jour lorsque la vieille dame [là, c'est de la "Queen Mum" qu'il s'agit...] ne sera plus de ce monde. »
Telperion訳:
しかしひとたび駆り立てられたソフィはそこで止まらず、取り返しのつかない行為に及んだ…無遠慮に「あの親愛なる老婦人」と呼び、女王その人を攻撃したのだ。そしてチャールズ皇太子も攻撃した。「あの人の再婚は、老婦人(ここでは「クイーン・マム」のことである)がもうこの世にいないいつか行われるでしょう」

2001年、ウェセックス伯エドワード(日本ではエドワード王子と呼ばれるほうが多いかも)の夫人ソフィが変装した記者の前で失言した事件について。

不可欠な名指しが削除される

ここで何よりも注目すべき点は、"la vieille dame"(老婦人)に続く次の注釈が新倉本から消えたこと。

[là, c'est de la "Queen Mum" qu'il s'agit...]
  • MumとはMotherの愛称。つまり"Queen Mum"とは、エリザベス二世の母であるエリザベス皇太后、通称"the Queen Mother"のこと。新倉本の第14章「皇太后と女王の夫君」の最初の段落にも、「愛情をこめ、“クイーン マム”と呼ばれ」と書いてある。
  • [c'est de la "Queen Mum" qu'il s'agit.]とは[Il s'agit de la "Queen Mum".](それはクイーン・マムのことである)の強調構文。
  • 注釈先頭にlà(そこでは)があるのは、少し前にある「ソフィは女王を老婦人と呼んだ」とこの文を区別するため。「あそこでは女王を老婦人と呼んだが、ここでは皇太后をこう呼んでいる」という含みがある。

なぜこの注釈が原本にあるのか。それは、この説明がなければ、ソフィの言葉にある老婦人とはエリザベス二世のことだと、すべての読者が誤解するから。

正しかったらしいソフィの予測

新倉本のP.328に、皇太后がチャールズの再婚を阻んでいるという記述がある。

実は皇太后を除きロイヤルファミリーのほとんどのメンバーはカミラに好意的だった。
二〇〇二年の春に皇太后が逝去し、残されていた精神的な障害が取り除かれた。

2番目の文は原本にない部分なので、原文も同じ意味だと断言することはできない。でも書いた新倉真由美としては、考慮する必要がある文のはず。

実際、チャールズとカミラは皇太后の逝去後、女王の存命中の2005年に結婚した。「女王が世を去ってから再婚」は明らかに実現しなかった。

括弧内の補足説明が不可欠なこともある

先入観のない読者は、いくらソフィの言葉が現実から遠くても、なかなか翻訳者を疑わないだろう。新倉真由美のおかげで、ソフィは王家の一員のくせに状況を何も分かっていないことにされてしまった。

新倉真由美は『Buckingham Palace Au Temps d'Élisabeth II』を翻訳する際、括弧で囲まれた注釈文を基本的に訳さない。全部照合するのは難しいので断言はできないが、ひとつ残らず無視しているのではないかと私は疑っている。原本の一部を省略すること自体は、出版業界でよくあることかも知れない。でも省略のせいで文意が変わるかどうかを検討した様子もなく消されるのは、ほとんどの出版では起こらないと思いたい。

細かい違い

他には文意が大きく変わる個所はないが、1つだけ少し気になるので書いておく。

cavalièrementが新倉本では「気取った」になった。cavalièrementを辞書で引くと「無遠慮に、横柄に」といった意味ばかりで、「気取って」とはとても訳せそうにない。

cavalièrementはcavalier(騎手)から派生した言葉だろう。新倉真由美はcavalierを礼儀正しい騎士だと想像したのかも知れない。でも実際にはcavalierは単なる馬の乗り手を指し、「不作法な」という意味の形容詞にもなる。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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