伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

嘲笑の対象ではない白鳥担当者

『バッキンガム』P.107-108:
さらに伝記作家も詳細が分からない女王の平底船担当者など明らかに名目だけのボランティアの公務員や、確かに白鳥の世話をしている王室白鳥係も、嘲笑の対象になる。
Meyer-Stabley原本:
Sans compter les fonctionnaires bénévoles auxquels n'incombent que des tâches purement fictives tel le gabarier de la reine, en charge des barges, qu'il faut bien distinguer ― les biographes des rois ne se lassent jamais de détails ! ― du maître des cygnes royaux, lequel, lui, s'occupe effectivement de ses cygnes.
Telperion訳:
さらには、純粋に架空の仕事しか課せられない無報酬の公務員、たとえば平底舟を担当する女王のはしけ荷積み人。これは実際に白鳥に関わる王室白鳥長としっかり区別する必要がある(王の伝記作家は細部に決して飽きない!)。

王室関連の笑える肩書として、職務と名前が合わない肩書がいろいろ挙がった後の続き。今度は名前そのものが仕事と合わない肩書ではなく、勤務実態がない肩書を挙げている。

はしけ荷積み人を説明する語句の構文解析

仕事がない肩書の例としてMeyer-Stableyが挙げたのは"le gabarier de la reine"。ラルース仏語辞典でやっと見つかったgabarierの定義をもとに、安直に「女王のはしけ荷積み人」としてある。この職はまず"en charge des barges"(平底舟を担当する)と書かれる。

私が取り上げたいのはその後に続く説明。文法的には次の3つに分かれる。

1. "le gabarier de la reine"(女王のはしけ荷積み人)を修飾する関係節
qu'il faut bien distinguer du maître des cygnes royaux (王室白鳥長とよく区別する必要がある)

先頭のqu'(queの縮約)は、先行詞が関係節の文の目的語だということを示す。つまり、先行詞である"le gabarier de la reine"は、関係節の文に次の形で入る。

il faut bien distinguer le gabarier de la reine du maître des cygnes royaux. (女王のはしけ荷積み人と王室白鳥長をよく区別する必要がある。)

"distinguer A de B"は「AをBと区別する」。原文中のduは"de le"の縮約形なので、AとBは次のとおり。

区別する一方のものA
le gabarier de la reine (女王のはしけ荷積み人)
区別する他方のものB
le maître des cygnes royaux (王室白鳥長)
2. ダッシュのペアに囲まれた挿入句
les biographes des rois ne se lassent jamais de détails ! (王の伝記作家は決して細部に飽きない!)
  • この文の述語の原形は"se lasser de ~"で、「~に飽きる」。「詳細に飽きない」を「詳細が分からない」とは解釈しようがない。
  • ダッシュのペアは括弧と同じ役割を持つ。ダッシュに囲まれた部分を少しの間無視するほうが、元の文を読解しやすいかも知れない。
3. "le maître des cygnes royaux"(王室白鳥長)を修飾する関係節
lequel, lui, s'occupe effectivement de ses cygnes (実際に白鳥に関わる)

lequelは関係代名詞で、この場合は先行詞が関係節の文の主語であることを示す。つまり、先行詞"le maître des cygnes royaux"は、関係節の文に次の形で入る。

le maître des cygnes royaux, lui, s'occupe effectivement de ses cygnes. (王室白鳥長は実際に白鳥に関わる。)

名前と実態が合った肩書は笑わない

「王の伝記作家は細部に決して飽きない」とMeyer-Stableyが口にしたのは、「はしけ係と白鳥係の違いをつつくなんて細か過ぎ」という読者の突っ込みを予想しているからだろう。ちょっと職名を聞いただけでは、どちらも水辺が舞台の名ばかりの職に聞こえても不思議はないのだから。

でもはしけ係と白鳥係を区別しなければならない事情は確かにある。はしけ係が純粋に架空の仕事である一方、白鳥係は実際に白鳥に関わる。白鳥係は「名前と勤務実態が合わない肩書」に当てはまらないのだから、Meyer-Stableyのやり玉には上がらない。

前の文でMeyer-Stableyが実態と合わない肩書を冷やかしていたと新倉真由美が理解していたら、「確かに白鳥の世話をしている王室白鳥係も、嘲笑の対象になる」と書けるはずがない。それに、ここで「王室白鳥長と区別する必要があるはしけ荷積み人」とあるのに、どちらも同じように扱うのはおかしい。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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