伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

実態と合わない肩書への冷やかし

『バッキンガム』P.107:
人びとは宮殿内で使われている言葉や、女王の部屋に絶対出入りできない衣装係、女官、引き裾の女官、ピラミッドの頂点にいる馬を持っていない侍従(乗馬教師と同義語)、女性ばかりなのに未だに〈卿〉と呼ばれる補佐官など、古めかしい肩書をからかわずにはいられない。
Meyer-Stabley原本:
On ne se prive pas de railler le langage de la cour et le côté désuet de certains titres. Ainsi les dames d'atour, qui ne pénètrent jamais dans la chambre de la reine ; les dames d'honneur, un peu plus élevées dans la hiérarchie ; les dames de la traîne, au sommet de la pyramid ; les écuyers, qui n'ont pas de chevaux; les lords-lieutenants, fonction parfois remplie par des femmes que l'on continue d'appeler « lords »...
Telperion訳:
宮廷の言語や、ある種の肩書の廃れた面は、遠慮なく笑われる。たとえば、女王の寝室に決して足を踏み入れない衣装婦人、階層の中でもう少し地位が高い名誉婦人、ピラミッドの頂点にいる引き裾婦人、馬を持たない乗馬係、時には女性が果たすのに卿と呼ばれ続ける長官卿…。

Meyer-Stableyはここで、フランス語(恐らく英語でも)では名前と仕事が合っていない肩書を冷やかしている。しかしここで挙がる肩書の中には、日本語では別な訳が一般的なものもある。定訳では実態と違う名前だと分からないし、フランス語の直訳ではおなじみの肩書だと分からない。訳文だけで原文の意味を十分に伝えるのは私には無理。

肩書の名前の解説

これから肩書のそれぞれについて、名前の説明とMeyer-Stableyの言いたいことを書いていく。もし出版本なら、肩書の1つ1つに訳注を付ける形になったろう。

les dames d'atours
  • 文字どおりの意味は「衣装の婦人」
  • 寝室で女王の着替えを手伝うわけでもないのに、「衣装の婦人」とはこれいかに。
les dames d'honneur
  • 一般的な訳語は「侍女、女官」。文字どおりの意味は「名誉の婦人」
  • 召使の中では大した身分でもないのに、「名誉の婦人」とはこれいかに。
les dames de la traîne
  • 文字どおりの意味は「引き裾の婦人」
  • 引き裾は引きずられるもので、"à la traîne"には「落後した」という意味もあるのに、引き裾の婦人が召使を率いるとはこれいかに。
les écuyers
  • 王室関連の訳語は「侍従」。「乗馬教師、曲馬師」といった訳語もある。
  • 馬もないのに、「乗馬教師」とはこれいかに。
les lords-lieutenants
  • 原文中のlordは男性限定の敬称の意味もある。
  • 女性もなる地位なのに、lordが付くとはこれいかに。

Meyer-Stableyが肩書をdésuet(流行遅れの、廃れた)と形容しているのは、「昔は名前と仕事が合っていたのだろうが、今はもう違う」と言いたいからだろう。

古風な単語が問題なのではない

私自身が不満だらけな訳しかできないので、本来は他人の訳をとやかく言えない。しかし新倉真由美は訳のうまい下手以前に、Meyer-Stableyが肩書を笑う理由をほとんど理解していないのが、次のことからうかがえる。

  1. "les dames d'honneur"のくだりが「女官」一言だけ。
  2. 「ピラミッドの頂点にいる」を侍従に付けた。でもセミコロン(;)はコンマ(,)より区切りの意味が強い記号。"au sommet de la pyramid"とつながっているのは、セミコロンの向こうにある"les écuyers"ではなく、コンマの向こうにある"les dames de la traîne"。
  3. 「未だに〈卿〉と呼ばれる補佐官」では、肩書そのものに「卿」(lord)が付いていると分からない。

これでは、これらの肩書が笑われる理由が次のように誤解されそう。

  1. 「女官」という言葉は古臭い
  2. 今どき使わない「引き裾」という言葉が肩書に含まれている
  3. 補佐官になった女性は周りに「卿」付けで呼ばれる

「侍従に当たるフランス語écuyerには乗馬教師という意味もある」は、新倉真由美にも分かったらしい。でも新倉真由美の書き方で読者がそう理解できるのかは疑問。私は侍従と乗馬教師が同義語なのは宮殿内部の慣例という可能性も思い浮かべた。

肩書の笑いどころへの新倉真由美の理解が足りないため、続く文でもどんどんぼろが出る。それについては「嘲笑の対象ではない白鳥担当者」や「職名のからかいが職員や絵画の侮蔑に激化」を参照してほしい。

言葉遊びへの無理解以外で気になったこと

男性もなるlord-lieutenant

lord-lieutenantは"fonction parfois remplie par des femmes"(時折女性がなる職)とある。「女性ばかり」は明らかに誤訳。実際、王室Webサイトにあるlord-lieutenantの説明ページには、"Men or women of all backgrounds"(あらゆる前歴の男女)とある。

lord-lieutenantは州の代表

王室サイトの説明によると、lord-lieutenantは州における王権の代表者として、王室がらみの儀礼行為を行うらしい。「ジーニアス英和大辞典」にはlord-lieutenantの訳語の1つとして「州(county)知事」がある。「補佐官」は個人秘書のような仕事を連想させ、lord-lieutenantの訳語には向かないと思う。

役職名は私にとって特に苦手な翻訳対象。それに私自身、最初はlord-lieutenantを宮殿の王族付きの役職だと思い込んでいたので、他人の訳語をとやかく言える立場ではない。でもlord-lieutenantはMeyer-Stableyが挙げた他の肩書に比べて外部から見えやすい地位なので、気づいたことはせっかくだから書いておく。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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