伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

南極の海峡に付いたチャールズ皇太子の名

『バッキンガム』P.187:
王室の政令で、南極の海峡とエレファント諸島の海峡の洗礼名がつけられた。
Meyer-Stabley原本:
Un décret royal baptisa enfin de son nom un détroit de l'Antarctique et un bras de mer situé près des îles de l'Élephant.
Telperion訳:
ついには王室の布告によって、南極の海峡とエレファント諸島近くにある海峡に彼の名が付けられた。

チャールズ皇太子の誕生でイギリスがお祭り騒ぎになったときの出来事。

海峡の洗礼名を付けるという謎

新倉真由美の文の意味が私にはよく分からない。私には次の2つしか可能性が浮かばないが、どちらも変過ぎて受け入れられない。

海峡に洗礼名が付けられた
いくらなんでも土地に洗礼名を付けるのはありえない。それにこれではチャールズとの関係がさっぱり分からない。
海峡の名がチャールズに洗礼名として付けられた
洗礼名を海峡に付けるよりはまだありえる。でも、イギリスから遠く離れたへき地の名前を王子に付けるのは奇妙過ぎる。

チャールズの名が海峡に付いた

原文では、"baptiser A de B"(AにBの名を付ける)という語句を使っている。文脈によっては「名を付ける」でなく「洗礼名を付ける」でもいいが、とにかく名前をもらうものと名前の由来を説明している。

上の文に当てはめると、AとBはこうなる。"de B"がAの前に来たのは、AがBに比べてとても長いためで、フランス語ではごく普通の倒置。

A: 名前をもらうもの
un détroit de l'Antarctique et un bras de mer situé près des îles de l'Élephant (南極の海峡とエレファント諸島近くにある海峡)
B: 名前の由来
son nom (彼の名前)

チャールズが生まれたときの出来事を説明している中の一文なのだから、"son nom"はチャールズの名前に違いない。原文にenfin(ついに)とあるのは、海峡命名はチャールズ誕生を祝う出来事のうち最たるものだとMeyer-Stableyが見なしているから。

南極に実在するらしいプリンス・チャールズ海峡

チャールズの名が付いた海峡はあまりにへんぴな場所にあり過ぎて、実在するかどうか確かめるのが大変。しかし英語wikipediaには、何とプリンス・チャールズ海峡のページがある。資料がwikipediaだけというのも心もとない話だが、このページはアメリカ地質調査所(United States Geological Survey)の文書をもとにしているらしい。その説明によると、プリンス・チャールズ海峡は南極のサウス・シェトランド諸島に含まれるエレファント島とコーンウォリス島の間にある。

Meyer-Stableyの説明には不審な点が2つある。

  1. 南極のエレファント島はすでにサウス・シェトランド諸島の1つなので、「エレファント諸島」という言い方はしないはず。現にフランス語wikipediaでも、この島は"Île de l'Éléphant"と呼ばれている。でも原文は"des îles de l'Élephant"であり、島が複数なので、「諸島」と訳さざるを得ない。
  2. Meyer-Stableyは2つの海峡にチャールズの名が付いたような言い方をしているが、「南極の海峡」と「エレファント島近くの海峡」はどうやら同じものらしい。

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Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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