伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

エリザベス2世の前に女王がいないような言い方

『バッキンガム』P.187:
チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージは二つのタイトルを持ってこの世に生まれた。ジョージ六世は、国王の男児だけが王位を継承できるという勅令を、権限を利用してエリザベス誕生の五日前に改定した。
Meyer-Stabley原本:
Charles Philippe Arthur George vint au monde avec deux titres : George VI avait amendé cinq jours plus tôt à son profit un édit qui voulait que seuls les fils du souverain pussent naître altesse royale et prince.
Telperion訳:
チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージは2つの称号を持って誕生した。ジョージ6世は彼のために5日前、君主の息子だけが生まれながらに殿下ならびに王子となれるという勅令を改訂していた。

チャールズ皇太子の誕生について。ジョージ6世はエリザベス2世の父にして先代の国王。

20世紀にあるはずがない男子限定継承の勅令

「国王の男児だけが王位を継承できる」という勅令がかつてあったとしても、ジョージ6世の時代に存続していたはずがない。エリザベス2世の前にすでに何人もの女王がいたことは、英国史を少しばかり知っていれば分かること。この本でもヴィクトリア女王がひんぱんに話題になるし、メアリー1世やエリザベス1世やアン女王の名もある。新倉真由美の英国史では、これらの女王は非合法な存在だったのか?

原文からすぐ分かること

エリザベスの話題はない

原文は単に"cinq jours plus tôt"(5日前)であり、「エリザベス誕生」という語句はどこにもない。チャールズ誕生の文の後に「5日前」が続くのだから、チャールズ誕生の5日前と見なすべき。

王位継承については書かれていない

勅令で定められたのは、"seuls les fils du souverain pussent naître altesse royale et prince"(君主の息子だけが生まれつき殿下および王子になれる)。これは王位継承とは関係がない話。君主の娘が王子でないのは当たり前で、王位継承権を認められているかどうかを問わない。

権限を利用したのではない

新倉真由美の文にある「権限を利用して」は、どうやら"à son profit"に対応するらしい。しかしprofitは「利益」であり、権限という意味はない。そして"à son profit"は、「彼(または彼女、それ)のために」というイディオム。本来は"à profit de ~(名詞)"という形だが、deに続くべき名詞が三人称単数の代名詞のため、"de 名詞"でなく所有代名詞sonになった。

sonは文脈に応じて「彼の」「彼女の」「それの」のいずれかになる。ここでは「彼の」、つまりチャールズかジョージ6世自身のどちらかだろう。それについては後で考える。

さらに踏み込んだ理解

チャールズの称号とは殿下と王子

「2つの称号を持って生まれた」の後にコロンが続いている。これは、コロン直前にある"deux titres"(2つの称号)が、コロンの後で具体的に説明されるということを示している。だから、コロンの後の文に称号が挙げられていると期待してよい。

ここで、最初の文の「2つの称号を持って生まれる」と2番目の文の「生まれつき殿下および王子になれる」が似通っていることに注意してほしい。つまり2つの称号とは、殿下と王子なのだろう。英語にすると、"Royal Highness"とPrince。

国王の孫が称号を持って生まれた

国王ジョージ6世が生きているのだから、チャールズを生んだときのエリザベスはまだ王女。君主の息子でなく孫であるチャールズは、「君主の息子だけが殿下ならびに王子として生まれることができる」に当てはまらない。なのにチャールズは生まれたとき、すでに称号を持っていた。

その理由は勅令改訂以外に考えられない。「君主の息子だけ」が、「君主または第一王位継承者の息子だけ」などという、チャールズを含む指定に変わったのだろう。

勅令を変えたのはチャールズのため

ジョージ6世が勅令を変えたのは「~のために」とあるが、これは「チャールズのために」と解釈すれば筋が通る。エリザベスの次の国王になりそうな孫に、称号を早手回しにプレゼントしたのだろう。

他に引っ掛かるいろいろな点

「エリザベス誕生前まであった男子限定王位継承の規定」ほどのインパクトはないが、新倉真由美の文を読んで「いったい何なんだ」と疑問を感じる個所はいくつかある。

2つのタイトルとは何?

「二つのタイトルを持って」を読むと、何という称号なのか、好奇心をそそられる。しかしそれが新倉本で明かされることはない。消化不良な気分。

唐突なエリザベス誕生の話題

ジョージ6世にからめて名が出るエリザベスとはもちろん、後のエリザベス2世しか考えられない。でもエリザベスが出産した話をしているときに、なぜいきなりエリザベスの誕生が話題になるのか?

エリザベス誕生時のジョージ6世は国王でない

エリザベスが生まれたとき、ジョージ6世は当時の国王ジョージ5世の次男で、未来の国王とは思われていなかった。王位継承にかかわる重大な決定を下せたとは思えない。

あるいは、ジョージ6世はジョージ5世の印刷ミスだと解釈できるかも知れない。でも、ジョージ6世の即位に現実味がなかった当時、エリザベスのために勅令を改訂する必要があるとは思われなかったろう。

エリザベス2世の人生はこの本の主な題材の1つ。この本を訳していれば、エリザベス誕生時のジョージ6世の状況は自然と頭に入りそうなもの。

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Telperion

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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