伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

主廊下にただの布は飾られない

『バッキンガム』P.48:
「以前は白かった壁はロンドンの“エンドウ豆のピュレ(濃霧のこと)によってくすんだ色になり、昔風の色の生地が貼られていた。ヴィクトリア女王が好んだ、ポニーやフランス海軍に勝利を収めた場面など、さまざまな絵画や、空虚な目で通行人を見ているかのような王室の祖先の肖像画が飾られていた。
Meyer-Stabley原本:
« Ses murs, jadis blancs, avaient été ternis par plus d'une purée de pois londonienne et étaient décorés de toiles aux couleurs passées, dépeignant des sujets aussi divers que le poney favori de la reine Victoria, telle écrasante victoire navale sur les Français, ou tel ancêtre royal regardant d'un œil vide les passants.
Telperion訳:
「かつて白かった壁はロンドンの濃霧によってつやをなくし、色あせたキャンバスで飾られていた。絵はヴィクトリア女王お気に入りのポニーと同じくらい多様な題材を描いており、フランスに対する何かの海戦の大勝利や、虚ろな目で通行人を見る王家の祖先の誰かだった。

宮殿2階にある非公開の主廊下(英語の名はthe Principal Corridor)について、ピーター・タウンゼントの回想録からの引用。

壁を飾るのはキャンバス

さまざまな修飾から分かるtoileの正体

新倉真由美の「昔風の色の生地が貼られていた」に相当する原文は"étaient décorés de toiles aux couleurs passées"(色あせたtoilesによって飾られていた)。実際、toileには「(平織りの)布」という意味がある。この部分で文が終わるなら、toilesを「生地」と訳す解釈もありえるかも知れない。しかし、実際には次の語句が続いている。

dépeignant des sujets aussi divers que le poney favori de la reine Victoria,
ヴィクトリア女王お気に入りのポニーのように多様な題材を表す

前の語句を修飾する現在分詞。ポニーに関する部分の説明は後回しにするので、ここでは、中心となる部分は"dépeignant des sujets"(題材を描写する)だということに注意してほしい。

telle écrasante victoire navale sur les Français
フランスに対するかくかくの海戦の圧倒的な勝利
ou tel ancêtre royal regardant d'un œil vide les passant
あるいは、虚ろな目で通行人を見る王家のしかじかの祖先

最初のtelやtelleは、物事をぼかして示すための言葉。何の戦いなのかや王家の誰なのかを具体的には言わないという意思表示になっている。

「題材を描写する」の後に、イギリス軍の勝利や王家の祖先が挙げられる。最初の語句は絵画について説明し、2番目と3番目の語句は絵画の主題を例示していると推測できる。だからこれらの語句の前に、絵画を指す名詞が現れているはず。

そこでtoileを仏和辞書で引くと、「布」の他に「カンバス、画布」という意味もある。タウンゼントの文を仏訳したMeyer-Stableyは、まずtoileという単語で絵の存在を示し、続いて具体的に説明していることが分かる。

toileを絵だと認めなかった新倉真由美

この文で絵そのものを指す言葉はtoile以外にない。でも新倉真由美はtoileがただの布だという解釈を捨てようとしなかった。新倉真由美の文に「絵画」や「肖像画」という言葉はある。でもこれらは新倉真由美にとって、絵画を指す言葉を入れ忘れたうかつな原著者への助け舟として創作した言葉なのかも知れない。

ヴィクトリア女王のポニーは題材の例ではなく多様さのたとえ

形容詞の比較級の見落とし

先ほどのsujets(題材)を修飾する"aussi divers que le poney favori de la reine Victoria"(ヴィクトリア女王の気に入りのポニーのように多様な)は、"aussi A(形容詞) que B(名詞句)"(Bと同じくらいAである)という構文を使っている。つまり、絵を修飾する形容詞がdivers(多様な)であり、ヴィクトリアのポニーは多様さを示すための比喩。新倉真由美にはこれが見えなかったらしく、ポニーも絵の題材にしている。

形容詞が前後両方の語句を形容するという変わった解釈

英語の"as A(形容詞) as B(名詞)"に当たる平易な構文に気づかないのに劣らないミスは、新倉真由美が"favori de la reine Victoria"(ヴィクトリア女王お気に入りの)をポニーと勝利の両方に付くものとして扱っていること。フランス語の形容詞は前の名詞に付くことも後ろの名詞に付くこともあるが、前後の名詞を同時に修飾するという例は、私の少ない経験では見たことがない。1つの形容詞で複数の名詞を修飾する場合、名詞をet(および)やou(または)で1か所にまとめるほうが普通なのだから。

おまけ - 実際に多いらしいヴィクトリア女王のポニー

「ヴィクトリア女王のポニーと同じくらい多様な」と言われても、ヴィクトリアが馬を愛好していたかどうかも知らない私には、さっぱり実感できない。そこで英国王室コレクションサイトのコレクション検索ページで、Victoria、Queen、ponyをキーワードに検索したら、検索結果の最初の12点の中だけで、ヴィクトリアのポニーがこれだけ出てきた。

  1. 女王のポニーCraig Liadhの写真
  2. 女王のポニーMalakoffの写真
  3. ポニーFloraに乗った女王の絵
  4. ヴィクトリアが王女だった頃のポニーBeautyの絵

私にはポニーの毛色や品種まで詳しく見比べる根気はないが、女王が馬好きで生涯にわたって多くのポニーに親しんだらしいとは推測できる。

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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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