伝記『ヌレエフ』の翻訳の検討

『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)と『ヌレエフとの密なる時』(ローラン・プティ著、新倉真由美訳、新風舎)の誤訳と改変。『バッキンガム宮殿の日常生活』(Bertrand Meyer-Stabley著、新倉真由美訳、文園社)の一部も対象

ステート・ルームを住居と呼ぶことの是非

バッキンガム宮殿の観光の見どころとしては衛兵交替が有名ですが、ステート・ルームもまた観光の目玉でしょう。王座の間、舞踏会の間、青の客間など、格式ある賓客を迎えるための広間の数々。インターネット上でも写真の数々を見ることができますが、その豪華さには目を奪われます。もちろん、Meyer-Stableyもステート・ルームの部屋は力を入れて説明しています。

このステート・ルーム、『バッキンガム宮殿の日常生活』でこんな呼ばれ方をしています。原文とともに並べます。2番目の新倉訳には言いたいことがありますが、ここでは本題でないので、別記事に書ければそうします。(2014/12/22: 記事「2つのスイートがあるのは東側では?」を記述)

『バッキンガム』P.49:
住居は宮殿の南側と西側を占め、
Meyer-Stabley原本:
Ces appartements (State Apartments) occupent les côtés sud et ouest du palais ;
『バッキンガム』P.52:
西側の居住区域の一番奥には二間続きのスイートルームがある。
Meyer-Stabley原本:
Pour finir, deux suites en enfilade complètent les grands appartements de la façade ouest.

どちらも宮殿2階の説明部分にあります。最初の文の「住居」、2番目の文の「西側の居住区域」、どれもステート・ルームを指すのは間違いありません。ステート・ルームは2階の西側にあります。

「住居」?「居住区域」?写真を見る限り、ステート・ルームは式や饗宴にはふさわしくても、居住どころか宿泊にすら向きません。なるほどバッキンガム宮殿は多くの人にとっての住居。でもそのなかで誰も寝泊りしない区画をわざわざ取り上げて住居と呼ぶのは、どうにも変です。

対応するフランス語appartementsは確かに住居を指す言葉

原文と見比べると、新倉真由美の「住居」や「居住区域」とかに相当するフランス語はappartementsだと分かります。『プログレッシブ仏和辞典第2版』でappartementを引くと、こうあります。

アパルトマン、マンション. (注)集合住宅内の1世帯用の住居を指し, 日本のアパートとは異なる. 建物全体はimmeubleという. ワンルームのものはstudioという.

集合住宅のうち、ある特定の住人に属する複数の部屋を指すということですね。ラルース仏語辞典の説明もだいたい同じです。

Partie d'un immeuble comportant plusieurs pièces qui forment un ensemble destiné à l'habitation.
建物の一部であり、居住を目的とした集まりとなる複数の部屋を含む部分。

フランス語の説明としては他に、フランス語wikipediaや辞書作成サイトwiktionary.orgものぞきました。でも、ステート・ルームにふさわしそうな説明はなさそうです。

いくらステート・ルームが住居でなくても、こうもappartementの意味として居住区画ばかり出てくるようでは、住居と訳すなとは言えません。たとえ原文が不適切だったとしても、それは原著者の責任。訳者は原著者の尻拭いをするのが当然だとは私は思いません。

ステート・ルームをappartementsと呼ぶ謎

そもそもMeyer-Stableyがステート・ルームをappartementsと呼ばなければ、こんなに頭を悩ませなかったでしょう。でも、ステート・ルームをappartementsと呼ぶのはMeyer-Stableyの独断ではなく、フランス語の慣例のようです。

英国王室コレクションサイトでフランス語のバッキンガム宮殿観光案内ページを読むと、"Appartements d'État (The State Rooms)"とあります。英語のRoomsに相当する仏語がAppartementsです。googleで検索すると、こういう表記は他にもたくさんあります。それらが信頼できるかは不明ですが、英国王室コレクションサイトで使われている訳語には重みを感じざるを得ません。

集合住宅でもないステート・ルームがappartementsと呼ばれるのは、英語ではああいう部屋をapartmentと呼ぶことと関係があるかも知れません。Merriam-Webster英語辞書でapartmentを引くと、集合住宅の区画の他に、ステート・ルームにふさわしい意味も載っています。

a large and impressive room or set of rooms
大きく印象的な一部屋、または部屋の集まり

英語でapartmentと呼ばれる部屋をフランス語で呼ぶとき、apartmentと同じ意味のフランス語を探すよりは、apartmentに似たスペルの単語を流用するほうが、フランス人にとっては簡便だったのかも知れません。

辞書に頼ることの限界

私にとって一番望ましかったのは、仏語のappartementには英語のapartmentと同じく、ステート・ルームに合う意味があるということでした。それなら、その訳語を選ばなかった新倉真由美の不手際ということですみますから。

あるいは、Meyer-Stableyがステート・ルームをappartementsと呼んだのが不適切だったという結末。むやみに原著者の間違いを疑うべきではありませんが、Meyer-Stableyが間違えた事例がいくつもあるのは確かで、特に動揺せずに受け止められることです。

なのにふたを開けたら、仏語辞典とフランス語の定訳に納得がいかないという、とんでもない事態になってしまいました。私は辞書の定義を最大限尊重するようにしていますが、生きている言語としてのフランス語は、辞書の枠組みにおさまらないこともやはりあるようです。

それとも「ステート・ルームが居住目的なものか」という私の考えを疑うべきなのでしょうか。今回のステート・ルームの一件では、自分の立ち位置をいろいろ考えることになり、なかなか刺激的な体験となりました。

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プロフィール

Author:Telperion
バレエへの関心が芽生えたのは2011年1月。その翌月に読んだ『ヌレエフ 20世紀バレエの神髄 光と影』は、そんな新参の私から見ても、間違いや意味不明な記述が多すぎました。その原因のほとんどが翻訳のひどさだと気づいたことからブログ開設を思い立ち、今は同じ訳者による邦訳本3冊を取り上げています。詳しくはこのブログでしたいこと 第3版をご覧ください。
フランス語の学習を始めたのは『ヌレエフ』に出会う少し前。まだまだ知識は浅く、至らぬところもあるでしょう。お気づきのことはぜひ知らせてください。リンクはご自由に。

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